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![]() ![]() 『民間経済外交の一断面』 ― 明治・大正期の商工会議所の活動史 ― (第3回)
在米日本国大使館
日露戦争後、中国では、ナショナリズムの高まりにより、明治38年(1905年)、米国における中国移民排斥法に反対して、米国製品のボイコットが発生し、明治41年(1908年)及びその翌年には、第二辰丸号事件をきっかけに全土にまたがる日本製品ボイコット運動が勃発した。石井 裕晶 当時、日本にとっての最大の市場は米国であったが、日露戦争前後から、中国は、輸出市場としても海外投資先としても重要性を増していた。 日中関係の緊張の高まりに対して、日本の経済界は、政府と連携をとりつつも、独自のイニシアテイブにより、中国との関係改善を図ることを模索しはじめた。 中国との国民的修好 日米や日中間の親善関係の増進に指導的な役割を果たした東京商業会議所会頭の中野武営は、「対中問題は怨恨から発する敵意である。」と認識し、日中関係を改善していく必要性について、次の旨述べている。 中国は、人口が四億あり世界の大市場である。我が国と千余年も長い関係がある。しかし、ひとたび我が国が、国を挙げて欧米新文明の輸入に多忙になり、ややもすれば無礼なことをするようになれば、中国人も、無礼であり、不快であると思うのも無理はない。この不快の感情が重なり、年と共に凝縮していくと、一段の嫉視となり、敵意となる。 例えば、近来我が国に来る中国留学生の数は実に数万となり、自然の情として、これら学生が我が国を第二の故郷として親しみをもつのが当然であり、学びえて帰ってから、日本の文物を故国に施そうと思うのは普通の順序のはずである。しかし、実際は全く正反対であり、自ら学んだことを復讐の武器としようとする傾向がある。 対米問題は、誤解から出た恐怖であり、対中問題は怨恨から発する敵意である。 米人の誤解はこれを解くのは難しくないが、中国人の怨恨を解くのは決して容易ではない。米人の誤解は実情を示してこれを直覚させれば足りるが、中国人の怨恨は自ら進んでこれを除かなければならない。中国人の悪感を解き、転じて肝胆相照らし、意気相許すの域に至らしめるのは、難事中の難事である。 ゆえに、熱誠なる国民的修交をもってこれに当たらなければならない。我が実業家が一度彼を訪れ、彼の国の実業家を促して来遊を請い、次第に相互の感情を融和し、交誼を温めることは実に我が国民的修交の第一着手であると信じる。日中両国和親の回復については、一般実業家が率先し、直接外人と関係を結んだ人士が労を分かつことを望む。 確かに中国は、現在において、第一流の文明国ではないが、近時、漸く面目一新の進路をとりつつあり、今現に太平洋上に一大勢力であるようになり、将来においては一層、大なる勢力となることが必然であることは疑いない。 翻ってこれを我が国の位置から考えると、西に中国と提携する必要があるのは、東に米国と提携する必要と相比すべく、日本、中国、米国という太平洋上の三国の連携は、以って裕に全世界の実用に当たるに足りる。すなわち、我が国が米国に向かって親密な関係を保持する必要を認めるのと同時に少なくともこれと同様の関係を中国と保有すべきことを絶叫せざるを得ない。 その後、100年近く日中関係は様々な試練を経て、時代背景や国際関係も大きく変貌してきたが、この意見は、この時代における財界のトップがもっていた日中関係や日米中関係についての問題意識を知る上で興味深い。 渡清観光実業団の派遣 東京商業会議所は、明治41年に米国からの実業団の訪日を受け入れた後は、中国の実業家との親善を図ることを考えていたが、反日運動の余波が残っていることと、光緒帝の大葬のため、訪中を延期していた。 しかし、渡米実業団(明治42年)の派遣が成功したことにより、日本の商工会議所は、順序として、その翌年、同様の民間のミッションを中国に派遣することにより、日中関係の改善を目指すことにした。 こうして商工会議所は、明治43年(1910年)6月、南京において中国で初めての内国博覧会である「南洋勧業博覧会」が開催される機会をとらえ、「渡清観光実業団」を組織した。 このミッションは、日本郵船の近藤廉平社長を団長として、大橋新太郎(東京商工会議所副会頭)、土居通夫(大阪商工会議所会頭)、島津源蔵(京都、島津製作所社長)、大谷嘉兵衛(横浜商工会議所会頭)、鈴木ハ兵衛(名古屋商工会議所会頭)、瀧川弁三(神戸商工会議所会頭)、松方幸次郎(川崎造船社長、松方正義の三男)らが参加した。 一行は、釜山、大邱、京城、仁川、平壌、新義州、安東、奉天、憮順、大連、旅順、大石橋、営口、天津、北京、漢口、漢陽、武昌、大治鉄山、南京(博覧会見学)、上海、蘇州、杭州などの都市を訪問した。 渡清観光実業団の派遣について、当初、北京、天津、長春、上海、抗州などが強い警戒心を示すのではないか、と懸念されたが、実際に訪問すると、各地の総督府の大官、商務総会、在留日本人の領事などにより、予想外の手厚い歓迎を受けた。 奉天では、130名ほどの日中官民の晩餐会があり、天津でも手厚い歓迎を受けた。北京では、北京の新聞記者による宴会、中国の外務大臣や各省次官による迎賓館での公式の晩餐会に招待された。 さらに、南京における南洋勧業博覧会では、一日に6回の食事の招待を受けるほどの歓迎を受けた。前年の渡米実業団は、シアトルにおいてユーコン・アラスカ太平洋博覧会に参加したが、同様に、博覧会はこの時代から経済外交の場として有効な場を提供してきた(木村昌人「日米民間経済外交」1905−1911より)。 南洋勧業博覧会には陳列館29、出品総数は7万点、外国からの出品は予定されていなかったが、参考のためとして、アメリカ、ドイツ、日本、イギリスの出品が行われた。日本は船舶、武器、機械、電気具、雑品を出品した。 このとき、近藤は、「実業の発達は両国の平和の基である。東洋の平和は世界列強の喜びである。日中両国の人民はともに相提携して実業の基礎を固くして東洋の天地をともに維持して世界列強の先進国と伍していくようにしなければならない。」と訴え、実業家が中心になって日中関係を改善していくべきことを訴えた。 中国実業団の招聘の失敗 この渡清観光実業団の派遣の翌年、日本の商工会議所は、「各省から有力な代表的な人を日本によこして、日本の実業だけではなく、百般のことを十分観察して、日本の誠意のあるところ、日本の真相をよく見せて、誤解を来たさないようにする」ことを狙って、中国の経済界に対して訪日を要請した。 中国側には、日本や欧米の商工会議所のようにしっかりした全国的な経済団体もなく、カウンターパートを見つけることに苦労したが、最終的に中国側は、上海、北京、天津、蘇州、鎮江、福州、烟台、重慶、漢口、香港、広東、南京、アモイ、桂林、長州など中国各地の商務総会(商業会議所に相当)や実業家、各省の有力者60名からなる「赴日考察実業団」を派遣することを決定した。 この時の計画では、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、長崎の7大商工会議所が受け入れを主催して、中国の各都市の商務総会が選定した実業家50名を招くこととし、一行を長崎に迎え、三池炭鉱、若松製鉄所、下関、広島、四阪島(住友の精錬所)、高松、神戸、大阪、奈良、京都、名古屋、静岡、横浜、東京から東北、日光や箱根にも案内し、これに各自治体や外務省、農商務省も協力するというものであった。 しかし、折しも1910年10月に辛亥革命が勃発し、この計画は頓挫してしまった。 その後 第一次世界大戦を挟み、その後も、経済界は、日中経済関係の強化を訴え続けた。大正9年(1920年)に渋沢栄一を会長とする、日華実業協会が発足し、上海や南京からの中華民国実業団などを受け入れ等を通じ、日中の実業界の交流に勤めた。 しばらくの間、日中の経済界がミッションを派遣する形での交流は途絶えていたが、昭和10年(1935年)になると、今度は、中国側のイニシアテイブにより、呉鼎昌中国塩業銀行総経理を団長とする中華民国赴日経済考察団が日本に派遣された。中国は、経済連携の強化を通じて、日中関係の改善を図ることを目指していた。 この時は、日本経済連盟会(日本経済団体連合会の前身)や日華実業協会が準備を行い、日本の経済団体との交流や工場見学等を行って親善を深めた。その成果として、中国側からの提案により、日中の経済連携や貿易促進を目的として日華貿易協会(日本)と中日貿易協会(中国)が設立されるに至った。 これに対応する形で、昭和12年(1937年)、児玉謙次(横浜正金銀行頭取)が団長となり、児玉訪中経済使節団が中国を訪問した。疎遠になった日中の間の意思疎通をよくするため、両者が遠慮なく議論を行う糸口をつけることを目的としていた。この児玉ミッションは、緊張した両国関係を打開するための経済界同士でのホットラインを設定することを合意するなどの成果をもたらした(松浦正孝「財界の政治経済史」より)。 しかし、日中関係が複雑化していく中で、民間経済外交が具体的な成果を生み出すことは、ますます難しくなっていった。(続く) |