『雑 感』


中部電力 紅村良雄

早いもので、ワシントンに昨年8月中旬に赴任してからもう半年が経ってしまった。911以降、厳しくなったと言われる運転免許取得も、やっと1月半ばに終わり、ワシントニアン(こんな言葉が一般的かどうかは知りませんが)の端くれになれたかと思っていた今日この頃ではあったが、先日デパートのカードを作ろうとしたら、「NO」との事。まだ半年程度では修行が足りないと言う事か。

さて、少し旧聞に属するが、日本では「ライブドア」の問題が大きく報道された。昨年暮れまでは、若手を代表するIT界の成功実業家で、明日の日本をドラスティックに変える可能性のある白馬の騎士(一寸大袈裟かな)の様に言われていたが、今は法律違反の容疑を掛けられ、投獄の身となっている。勿論まだ逮捕されただけあり、事の是非に関しては司法判断を待たなければ成らないが、いずれにしてもその落差は激しい。

この1件が、過去のある出来事を連想させたので、以下に簡単に紹介させて頂く。

サミュエル インサルは、1,859年ロンドンの中流階級に生まれ、高等教育を受ける事もなかったが、聡明で野心家であったと言われる。新聞広告がきっかけでトーマスエジソン・ロンドン事務所に雇われそこでの働きが認められた結果、1,881年21歳の時にエジソンの秘書としてアメリカに迎えられた。エジソンとの初対面時、性格、考え方等あまりに両人に共通点が無く、特にエジソンのだらしない格好にかなりの幻滅をしたらしい。しかし、奇行は多いが発明家として類まれなる才能の持ち主のエジソンと、企業家としての才覚にあふれるインサルは、お互いの欠点を補う最高のコンビであったらしい。インサルはたった6年の間にスケネクタディ工場(ニューヨーク州、現在もGEの工場がある。)の従業員を200名から6,000名までに増やす事に成功している。

しかし、時が経つにつれ、二人の意見の違いや、エジソンの事業判断ミスへの嫌気などもあり、お互いに仲が疎遠になっていった。そして、1,892年、インサル32歳の時にエジソンの下を飛び出し、電力会社のシカゴエジソンに重役として迎えられた。

ここから、インサルが元来持ち合わせていた企業家としての才覚が花開く事になる。当時、電気はまだ贅沢品と考えられており、殆どの家庭には電球は無く、普及していなかった。一産業としての黎明期に当たり、シカゴには小規模の電力会社が40社以上乱立していたと言われている。今のような大型発電所は無く、工場や商業施設など大きな需要家は自家用発電設備に頼っていた。その代表格は、路面電車会社であったが、このような自家用発電設備により全米の電力需要の約3分の2が供給されていた。

しかし、路面電車の需要ピークは朝晩のラッシュ時だけ、オフィスビルは昼間しか電気を使わない、街路の照明需要は夜だけで昼間の需要は無い。それぞれが、バラバラに自家発を所有していたので、ピーク時以外は設備が遊び、稼働率が低く非効率な状態となっていた。重電機器メーカーは、まだ大型機器の製作技術を持っていない事もあり、小型の発電設備を量産してさばく事に腐心、結局、不合理な状態が放置されていた。

インサルは、今流の言葉で言うならば、ここに新たな「ビジネスモデル」を見出した。これらの分散した発電機や需要を繋ぎ一つの大きな系統とすれば、結果として平滑化された需要が形成され、そして発電機の稼働率を飛躍的に高めコストを削減できる事になる。

そこで彼は、手始めに、夜間照明用の自家発を止めさせる事に成功、路面電車会社に働きかけ自家発から買電への切替えを行った。営業手法は、賄賂や、政治家のコネを使ったり、何でも有りだった様である。手法の是非はともかくとして、このようにして次々と新規需要開拓に成功、結果として大幅な発電設備稼働率向上を成し遂げた。当然の帰結として会社の規模拡大に連れ飛躍的に原価が下がっていった。「どの家庭、工場、交通機関にも、一つの会社から送るのが一番安い。」と挑戦的な料金値下げを行いながら規模拡大を続け、彼の入社時に20k/kWhもした電気料金を1,910年頃には約2.5k/kWhまで下げ、お客様の数も5,000から1,910年過ぎには、20万にまで増やしている。また、料金制度に関しても先見の明が有り、早くから従来の電灯の数による料金徴収では無く、基本料金を持つ従量料金制度を採用していた。使えば使うほど料金が割安となるため、電力使用量を増やすのに有効であった。

彼は、独占によるメリットを良く理解していたが、併せて、当局による規制の必要性と競争から守られる事による利益も良く理解していた。州を経済単位として考えていたようで、州政府規制の必要性を先導切って訴えたと言われ、1907年にウイスコンシン州は全米で最初に公益事業規制委員会を設立している。

シカゴエジソンを短期間に急成長させる事に成功したインサルだが、彼の野心はそれでは満足されなかった。次のステップとして、同業者の買収を積極的に始めた。ここでも、使える手立ては何でも使ったようである。その事が、後に彼のイメージを悪くする結果となり、米国を追われる事につながるのだが……。

電力会社の買収を繰り返す際に、彼は持ち株会社方式を多用した。しかも限られた資本でなるべく多くの会社をコントロールするために、多層構造が多用された。つまり、持ち株比率が50%を少し超える持ち株会社を設立すれば、自己資本の約2倍の支配力を行使しうる。しかし、持ち株会社をもう一段下に作れば、さらにその2倍の規模となる。つまり持ち株会社の階層を一つ増やす度に、大まかに言って倍の支配力が得られる事になる。こうやって、レバレッジ効果を最大限に活用しながら1,920年代にはインサル帝国を築き上げ、最盛期には65社の会長、11社の社長、85社の取締役をしていた時があるといわれている。

しかし、この様な複雑な事業形態は、管理の限界を超えており、傘下企業において資産や売上げの水増しが行われても把握する事は困難になって行った。21歳でロンドンから米国に渡ってから、1,920年台には一大帝国を築き上げたインサルだが、1,929年から始まった大恐慌のあおりを受け、株価は暴落・投資家に甚大な損害を与えた上に、不正経理の発覚、元来の強引な経営スタイルから来る悪いイメージも災いし、彼を糾弾する声が大きくなっていった。ほうほうの体でヨーロッパに逃げ出したが、米国からの手配で各国から受入れ拒否に会い、ヨットで暫らく地中海をさ迷っている。しかし、結局トルコに捕まり米国へ送還、投獄の身となった。結果的には裁判で無罪とはなったものの一時の飛ぶ鳥を落とす勢を取り戻す事はなく、余生をヨーロッパで静かに過ごし、心臓病で1938年に亡くなっている。

この騒動を教訓に、ルーズベルトが公益事業持株会社法(PUHCA)を1,935年に制定したが、昨年のエネルギー政策法によって今年の2月8日をもって廃止されたのも何か因縁を感じさせる。

一つの新しい産業が急成長を遂げ社会の変革を促す時に、従来の社会制度や法制度が追従出来ずにもたらす社会現象の一つなのかも知れないが、歴史の繰り返しを感ぜざるを得ない。