『民間経済外交の一断面』
― 明治・大正期の商工会議所の活動史 ―
(最終回)


在米日本国大使館
石井 裕晶

今からちょうど100年前の1906年4月に発生したサンフランシスコ大地震の直後の混乱期に、市が日本人学童の隔離命令を出すという日系移民への排斥問題が起こり、日米で大きな政治問題になった。しかし、日米紳士協定に基づく移民の自主規制の実施、実業団の交流などを通じた日米双方の関係改善への努力が一定の成果を出し、日米関係の緊張もそれなりに静まったかに見えた。

しかし、日本からの移民が成功し、農地を次々に獲得していくのを見て、カリフォルニア州全体で、引き続き日系移民への警戒心が高まっていった。

ただし、1915年にパナマ運河の開通を記念する万国博覧会が計画され、その誘致をめぐり、サンフランシスコ市とニューオリンズ市が争っていた間は、排日的な動きがあると博覧会の誘致にマイナスとなる、としてカリフォルニア州における排日運動は沈静化していた。

しかし、大正元年(1912年)に、パナマ運河開通記念・太平洋万国博覧会がサンフランシスコ市で開催されることが決定し、日本政府も博覧会への参加を決定した後、その翌年に、それまで12年間続いた共和党の大統領から、民主党のウッドロー・ウイルソンが大統領に就任すると、政治情勢が一変し、カリフォルニア州議会には、再び多数の排日法案が提出されはじめた。

これには、それまでの共和党の大統領が、日米関係の維持のためカリフォルニアにおける排日運動を様々な手段で抑えていたのに対し、ウイルソン大統領がカリフォルニア州で「州権の尊重」を公約として当選した背景もあった。

排日土地法案の提出

カリフォルニア州議会において、土地所有禁止法案ほか約30に上る排日法が提出されるに至り、珍田捨巳駐米大使は、ウイルソンが大統領に就任した直後の大正2年(1913年)3月、新大統領に面会を求め、排日法案が通過すれば重大な影響が出る、と直接に申し入れを行った。

さらに、日本の経済界からの働きかけもあり、サンフランシスコの博覧会会社が、知事及び上院議員等に面会して、排日法案の提出を行わないように要請した。しかし、労働組合は「博覧会はたかが一年のことであるが、白人は永遠に存在する。」と主張し、博覧会会社の主張に反対した。

そこで、珍田大使は、4月15日に、改めて大統領に面会し、日本人が排斥されるのは人種的偏見以外にはない、と抗議を申し入れた。

これに対してウイルソンは、「自分は個人としては、本案は正義に適していないと認めるが、外国人の土地所有を禁止するかどうかの問題は、州が完全に決定権をもつものである。中央政府には立法を制止する権限はない。」と答え、この時点で、カリフォルニア州議会に直接介入する考えはないことを表明した。

このように米国で排日運動が高まっていることが日本でも大きく報道され、世論も強く反発した。

4月17日、東京の神田青年会館で「対米国民大会」が開催され、数千の聴衆が集まり、「日本艦隊の米国訪問、太平洋諸港の一次封鎖」など過激な提案がなされ、三宅雪嶺は「日本はこれまで米国に対してあまりにお世辞が過ぎた。少し日本の本当の所を見せるがよい。」と気炎を上げた。

商工会議所の奔走

事実上日本人による農地等の所有を禁止する法案の成立の動きに危機感を抱いた東京商工会議所は、サンフランシスコやロスアンゼルス商工会議所あてに、同法案の阻止への協力を求めるとともに、在京米国大使にも直接懸念を伝えた。

山本権兵衛首相も、東京商工会議所の中野武営会頭らを官邸に招き、法案阻止のために、政府及び民間ベースでどのような対応ができるか協議を行った。

そして、東京商工会議所は、三井物産、東洋汽船、日本郵船に働きかけ、各社の米国店員、その取引先等に対して排日防止について十分援助を求めるように依頼をした。続いて、米国の連合通信社に対して、カリフォルニアの排日法案が今後の日米国交上甚大な悪影響を与えることを申し述べ、その趣旨は米国各地の900の新聞社に配信された。

これに対し、4月13日には、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、ポートランドの各商工会議所から東京商工会議所あてに、法案の阻止に向けて善処している旨、ワシントンDCの全米商工会議所会頭からも「米政府は妥当な解決策を求めようとしており、友情を壊すことなく解決できると信じる。」との返答が寄せられた。

続いて、日本の全国商工会議所連合会から、ウッドロー・ウイルソン大統領、カリフォルニア州ジョンソン知事、全米商工会議所会頭、太平洋沿岸連合商工会議所会頭あてに、排日問題について善処を求める打電をした。

さらに、4月26日、渋沢栄一や中野武営など穏健な実業家などが組織した「日米同志会」は、帝国ホテルに、米国連合通信社、ロイター、ロンドンタイムズ、ニューヨークヘラルド、ニューヨークワールド、ロンドンデーリークロニクル、ユナイテッドプレス各社の新聞記者を招き、カリフォルニアの動きが日米関係に与える深刻な影響について、日本の経済界の意見を訴えた。

また、日本の各政党もこれを憂慮し、与党の政友会は、党員の江原素六(貴族院議員、麻布学園創立者)を、野党の国民党も服部綾雄(プリンストン大学留学中にウッドロー・ウイルソン学長の弟子)を米国に派遣した。

このように、当時の日本の商工会議所は、それまでの渡日実業団の受け入れ、渡米実業団の派遣、パナマ太平洋博覧会への参加問題などを通じて、米国の商工会議所や米国政府との間のネットワークを発展させ、自らの意見をまとめて、外国政府に直接意見を申し述べたり、対外広報をするなど、独自の存在感を示すに至っていた。

米国政府の対応

このような日本の経済界による働きかけも少しずつ効果が出始めた。

ハワイ州は、排日法案を制定するときは、万国博覧会に参加する経費を支出しないとの決議を行った。シカゴトリビューン紙は、カリフォルニア州が我が儘なことをして全国の利益を危機に至らしめることは慎むべきであるとの論説を発表した。

ニューヨークの米国新聞記者100名は、大多数によってカリフォルニア州議会の行為に反対する決議を行った。オレゴン、アイダホ、ワイオミング、コロラド州は、逆に日本人に土地を売りたいと言い出すなど、日本に同情を示す声も出しはじめた。また、ポートランドやサンデイエゴの商工会議所会頭は、排日土地法に断固反対する旨の書簡を日本に返した。

しかし、逆に、アリゾナ州議会やカナダにおいては、カリフォルニア州に倣った法律を提出する動きが出始めた。ミシッシッピ出身の下院議員は、カリフォルニア州議会は立法権を譲歩するのであれば開戦した方がよい、という発言をするなど、カリフォルニアの動きを支持する声も上がっていった。

日本側の反発と、米国内における議論の沸騰をみて、連邦政府も事態の深刻さに気づきはじめた。

こうして、4月22日に、初めてウイルソン大統領からジョンソン知事に対して、「自分は合衆国大統領である職責から、また、カリフォルニア州市民及び州会がこのことが国家の政策及びその名誉に関する大事件となるに想い致すことを確信して、差別的な法案に反対する。」旨打電し、カリフォルニア州への善処を求めた。

しかし、カリフォルニア議会はこれに動かず、4月24日、ウイルソン大統領は、訪日経験もある知日家であったブライアン国務長官をカリフォルニア州に派遣することにした。

連邦政府において、本問題を解決するための妙案はなかったが、国務長官がこのような問題で州政府や州議会に赴くことは合衆国史上前例がないから、州としても連邦政府の気持ちを察して、何らかの譲歩をするのではないかという期待だけが頼りであった。

こうして4月28日、ブライアン国務長官は、サクラメントに到着し、ジョンソン知事と協議するとともに、両院協議会において、「素晴らしい発展を遂げ、列強の一員で、米国の友人でもある国のプライドを傷つけるようなことはすべきでない。」と説得したが、ウイルソン大統領自身が州の自治を尊重すると公約しながら、本件については連邦政府が介入する姿勢を示したことに、かえってカリフォルニア州議会は反発した。

排日土地法の成立

日本政府の外交努力も、日本の経済界による精力的ロビイングも、米国政府の説得も効がなく、最終的に、5月2日、排日土地法案は、カリフォルニア州議会において多数で可決された。

上下両院を通過してしまった以上、残された選択肢の中で、期待できることは知事の拒否権の発動だけとなった。

5月10日、珍田大使は、「本法案は、本質的に不当かつ差別的で我邦人の排斥を主眼とする事実に疑いがなく、日本人が現に有している権利を侵害するだけではなく、日米現行条約の規定に抵触し、両国条約の基礎である修交親善の精神また本義に反する。」と、書面によって公式の抗議を行った。

ウイルソン大統領も、ブライアン国務長官からジョンソン知事あてに電報を打たせ、知事に拒否権を発動するように求めたが、知事はこれを拒否した。

結局、日米政府間の外交交渉による打開の道も開けず、ジョンソン知事は、5月19日に、いわゆる排日土地法に署名し、法律が成立した。

この排日土地法により、市民権を持たない日本人移民は、カリフォルニア州の土地の所有を禁止され、3年以上の借地も不可能となった。

本件をめぐる日米政府間交渉が行われていた時、珍田大使が激しく米国政府に抗議したということから、当時、海軍省次官補であったフランクリン・ルーズベルトも参加していた陸海軍合同会議は、日本から奇襲攻撃を受ける可能性があるので、マニラ、ホノルル、パナマ運河の海軍力を増強すべきことと、臨戦態勢に入るべきことを提言したが、ウイルソン大統領は、これに断固反対し、外交的解決を求めたひとコマもあった。そこまで日米関係は緊張した。

本件は、カリフォルニア州という一自治体による自治の結果の問題ではあったが、それが、日本における対米感情を悪化させ、その後の日米の外交関係に大きな傷を残したことは間違いない。

自治体は、自らの自治の結果が国家全体の外交や安全保障問題になっても、最終的な責任はとれない。そのように考えて、セオドア・ルーズベルトやタフト大統領は、連邦政府として様々な手段を用いて自治体に働きかけたが、ウイルソン大統領は自治体を説得できなかった。

このように民主主義においては、地方自治の自由と国家としての外交や安全保障関係の間のバランスをとっていくことは、容易ではない。特に現代のように、内政の問題がただちに外交に跳ね返る時代になればなおさらであろう。

その後

排日土地法案成立後の大正5年(1916年)、サンフランシスコで開催されたパナマ太平洋万国博覧会に出席した渋沢栄一らは、帰国して、日本の財界の重鎮からなる「日米関係委員会」を設立し、経済界ベースでの日米関係増進のための枠組みを作った。

第一次世界大戦中は、米国における排日運動は鎮静化していたが、戦後、再び活発化した。

大正11年(1922年)に、米国連邦裁判所は、日本人には帰化権がないとの判決を下した。続いて、大正13年(1924年)に、連邦議会は帰化不能の外国人(事実上、日本人が対象)の入国禁止条項を含む新移民法を可決し、これにより、日本人移民の入国は、再渡航者を除いて、米国全土で禁止されるに至った。

この時、埴原正直駐米大使が、「移民法が成立すれば両国関係に重大なる結果となる。」との文言を含んだ書簡をヒューズ国務長官に発したことから、これ見た議会が、この書簡は「覆面の威嚇」であると反発し、連邦議会は同法案を多数で可決してしまった。

この法案の成立を見て、新渡戸稲造は、「つねにアメリカ国家の正義感と善意によせてきた信頼感を私は失ってしまった。」と嘆いたという。

こうした日米関係の悪化を憂慮し、昭和2年(1927年)、親日的な宣教師のシドニー・ギューリックは、全米の子どもに呼びかけて、日本の雛祭にあわせて、日本の子どもたちに約12,000体の人形を送った。

この時、日本側では、渋沢栄一が「日本国際児童親善会」を設立し、童謡で有名な「青い目の人形」の受け入れに尽力した。

しかし、この後は、それまでのような民間経済外交のリーダーシップがとられることはなかった。

昭和16年(1941年)に真珠湾攻撃が起こると、翌年の2月、フランクリン・ルーズベルト大統領は、行政命令により、国防の危害を及ぼすと認められるものには、市民、外人の区別なく強制立退を命ずる権限を陸軍省に与えた。敵国外人としては、事実上日系人にしか適用されなかった。そして、日系人11万人が強制立退の対象となり、収容所に収容され、財産を失った。

戦後になって、昭和23年(1948年)、米国の最高裁判所は、カリフォルニア州における排日土地法は、人種差別に基づくものであり、違憲であるとの判決を行った。そして、昭和27年(1952年)に、連邦議会は、帰化法の人種差別を無効とする法律を成立させ、日系人も市民権を得ることができるようになった。

本稿を結ぶに当たり

今回で、4回にわたって連載した明治末期から大正初期にかけての民間経済外交の「一断面」とその後、についてのご紹介を終わりにしたい。

戦前、この一時期ほど、経済界が、対米、対中関係の改善に向けて問題意識を強くもち、主体的に実践した例はなかった。大正デモクラシーの影響があったのだろうが、当時の経済界の主体性と実践的行動には目を見張るものがある。

この時代とは対照的に、昭和に入ると、なぜか経済界の力強いイニシアテイブは消えていった。

翻って現代を見ると、冷戦の終了により、東アジアの国際関係は大きく変容した。安全保障問題など、国境を意識した問題が大きな課題となってきている。

それとは逆に、ビジネスは益々グローバル化し、経済的には、益々国境がなくなりつつある。

この二つをどのようにバランスさせていくべきか、政府に対しても、経済界に対しても問われている。当時の経済界も、本質的には、同様の課題をつきつけられていた。

そういう意味で、ここでご紹介した「時代」と、その中で生きた人々の「精神」と、「その結果」を理解することが、政治と経済の接点で仕事をする機会が多いワシントンにいる我々にとって、何らかの糧になればと思う。(完)

(注)本稿は、筆者の個人的論考であり、何ら公的な見解を表明するものではない。