『ワシントンD.C.の思い出』


原子力安全・保安院
伊藤 敏

私が(社)海外電力調査会のワシントン事務所長としてワシントンD.C.で勤務したのは、2001年の1月から2003年の6月までの約2年半の期間です。海外勤務は2度目、前回はアフリカ勤務でしたが、アフリカには家族同伴で赴任し、ワシントンD.C.へは単身で赴任しました。アフリカが家族同伴でアメリカが単身赴任なのは、逆ではないかと良く聞かれたものです。

ワシントン事務所の主な仕事は、米国の電力事情を調査し東京に報告することです。着任直前にカリフォルニア州で大停電が発生し、日本でも大きな関心を呼んだことから、私も着任後の最初の仕事としてカリフォルニア州に現地調査に行ったことを覚えています。仕事の面では、電力自由化の進展や原子力の復活、ブッシュ政権のエネルギー政策の転換など、任期中はエネルギー関係の話題に事欠きませんでした。日本からのミッションも多く、休日のアテンドもしばしばでしたが、おかげで全米各地をいろいろと観てまわることができたのは思わぬ役得だったと思います。

単身赴任のため世界が狭くなりがちな私にとって、商工会活動に参加させていただいたのは有難いことでした。桜祭りや秋祭りなどの行事の企画や参加はもちろんのこと、月に一度の理事会で理事の皆さんと、普段は和気あいあいと、時として口角泡を飛ばしながら議論をしたのも懐かしい思い出です。商工会では広報を担当しましたが、最初の仕事で加藤駐米大使への着任インタビューを行い、大使が同郷の出身だと知り驚いたこともあります。大使館との間では、その後、大使館員と商工会理事との定例の意見交換会が始まり、私にとって民間の立場から在外公館の活動を知る良い機会ともなりました。

赴任中の出来事で特筆すべきは、同時多発テロに遭遇したことでしょうか。9月11日の朝、いつもどおりに出勤すると、ローカルスタッフが貿易センタービルに飛行機が突入したことを告げるのです。その後、3機目がペンタゴンに突入し連邦議会の職員が避難を始めたとの報せを聞き、所員の退避を決めました。私も車で自宅に向かったのですが、途中の道は大渋滞で沿道も歩いて避難する人でいっぱいです。結局、普段は所要時間30分の道程を2時間かけて帰宅しました。自宅に帰って所員全員の安否を確認し、ホッと一息ついたのを覚えています。その後も、アフガンへの攻撃やイラク開戦などの度にテロに対する警戒段階が引き上げられ、その間に炭素菌騒ぎや無差別狙撃事件などもあり、落ち着かない毎日を過ごしました。アフリカ勤務の時も治安には気を使いましたが、先進国中の先進国のアメリカでこんな目に会おうとは、想像だにしませんでした。

プライベートでは初めての海外単身赴任生活を経験しました。ベセスダのアパート住まいでしたが、近くには日本食の食材店やレストランが多数あり、心配した食生活には不自由しません。そのうち徐々に慣れてきたので、夕食は自炊にすることにしました。自炊といっても、日本食材店で調達した惣菜を電子レンジにかけるだけのいい加減なものですが、それでも御飯と味噌汁のある食卓に大いに満足したものです。亡国の遊戯だとあれほど忌避していたゴルフも、社交の必要に迫られ止む無く覚えました。成績の方はさっぱりでしたが、青空の下で白球を叩く爽快感は格別なものがあり、土日の無聊の慰めに練習場に通いつめたものです。

ゴルフ場があるせいばかりではなく、ワシントンD.C.は全米で最も美しい街のひとつだと思います。私の数少ないドライブコースだったリバーロード沿いの景色などを思い出すたび、その感を強くします。あんなに美しい街で、良い仲間と存分に仕事ができたのは本当に幸せなことだったと、今さらながら思っています。

夢のようなワシントンD.C.での生活から現実に帰り、日本では原子力関係の業務に就いています。昨年には、政府のテロ対策の一環として核物質防護の法律改正を手がけました。同時多発テロを経験したのでテロ対策を任されたわけでもないのでしょうが、ワシントンD.C.時代の経験が今につながっているのは確かです。

ダラダラと書き連ねましたが、思い出は尽きません。まだまだ書き足りないことばかりですが、この辺で筆を置くことにします。この号が出る頃はワシントンD.C.はもう新緑の頃でしょうか。ポトマック川の水面は今日も輝いているでしょうか−。あらためて、当時お世話になった皆様方に心から感謝するとともに、ワシントン日本人商工会の益々の発展を祈念し、拙文とします。