

『ビルマ昔話』
日本建設業団体連合会
森永 彰
Once upon a time.
1984年5月から1985年5月まで、20年以上も前に、1年間単身赴任した時の話。今はビルマでなくミャンマーだと訂正されそうだが、住んでいた当時の国名がしっくりするため、敢えてこの名を使用させて頂く。
初めての海外赴任で、日本国政府が鹿島建設に発注した無償援助プロジェクト「収穫後技術訓練センター」をラングーン郊外で建設する工事だった。住宅と事務所を兼ねた一軒家の一階に事務所と食堂とレセプションルーム、二階には所長室と私の部屋と日本食料品の貯蔵のための部屋(味噌、醤油、調味料、麺類等々、日本から船便で輸送した食料品を収納し、年中クーラーをかけていた)の3部屋があった。他の日本人社員とスーパーバイザーは、他の宿舎に分散して生活。
ナニ(女中さんのこと)、コック(ナニで料理が出来る人)、夜警、庭師、運転手などを雇っていたが、住居の裏には、サーバントクォーターと呼ばれる小さな家があり、運転手を除く彼/彼女達が家族共々大勢で生活していた。従って、ワシントンDCでの今の単身赴任と違い、掃除、洗濯、料理の心配はなかった。下着・靴下にも全てアイロンをかけてくれるし、料理はあまり上手くはないが3食食べられるので贅沢は言ってられない。カレーライスも出たが、味が薄くどうしてだろうと思っていたらカレーのルーの分量を通常の半分くらいにしていた。別に節約をするように言われていたわけではないと思うが、誰も敢えて注意しなかったのでそれで良いと思っていたようだ。ご夫妻で赴任している家のコックは、日本人の奥さんから料理の手ほどきを受けるためしっかりした味や盛り付けができるが、男所帯では止むを得なかった。
着任した5月は蒸し暑く、丁度、「水祭り」の最中で、どんな祭りかと思ったら、ただ、水を掛け合って楽しんでいるだけ。それが、数日、続くのだが、その間、電話のオペレーターも休んでおり、日本に電話がかけられなくなる。そのため数日間、ビルマに到着したことを家族に知らせることができなかった。着任した時は、所長が海外出張中で一人だったので、今の時代では考えられないことだが、数日経って当日が何日か何曜日か分からなくなり、家の使用人はビルマ語しかわからず、誰にも確認の仕様がなかったのだ。電話は全て盗聴されていたようで、日本語が理解できるオペレーターがいるので、会話にビルマの批判や悪口の話題がでると、突然、切られてしまう状態であった。
以下は、断片的な記憶を辿りながら、この機会に当時のビルマについていくつかご紹介したい。
―色々な生物のこと―
- シロアリ:着任間もない頃、事務所横の倉庫の中から、何か分からないがクチャクチャクチャクチャという音が聞こえるので、ローカルスタッフと一緒に、恐る恐る扉を開いたところ、電化製品が入っていた大きなダンボールの空箱から音がしており、よく見るとシロアリがびっしりといて、箱を噛んでいる音だった。大げさではなくローカルスタッフも仰天し、直ぐに、外に箱を出して焼却した。このことを他の日本人社員に話したところ、シロアリが巣食った家から、ある時突然シロアリが一斉に飛び立ったのを見たことがあるが、それはすごい迫力であったとの話を聞き、背筋がゾッとしたのを覚えている。
- ヤモリ:爬虫類のヤモリだが、ベッドに横になり見上げると天井にゴソゴソとヤモリが数匹這っている。帰国する頃には慣れたが、はじめはいつ降ってくるかと心配しながら寝ていたものだ。
- コウモリ:最新の「バットマン・リターンズ」のPR用のポスターに無数のコウモリが飛んでいる様子が描かれていたと思うが、或る日中、空を見上げると真っ黒い太い帯状のものが彼方にたなびいているものが見えて、何とそれがコウモリで恐らく数万匹は飛んでいたと思う。
- サソリ:事務所の入り口で犬が吠えていたので何かと思ったら、尻尾を上げた透明がかったサソリが玄関の中に入っていた。庭師の子供が指差して「ポイズン!ポイズン!」と叫んでいた。直ぐに、棒の先でつぶしたが、後で、聞くと、靴を履く時には必ず中を確認して履かないとサソリがいる可能性があることと、一匹いると必ず、でいるので気をつけるようにとの注意を受けた。
- 南京虫:の椅子に坐る時は必ずトントンと床に数回椅子を叩きつけてから座るように注意された。こうすることで、南京虫が椅子から落ちる。南京虫はズボンの上からでもしっかり咬まれる。一度、油断をして座った瞬間(大袈裟ではなく)チクッとしたと思ったら、太ももの裏にびっしりと椅子との接点に南京虫の咬み痕が付き暫く痒みがとれなかった。
―水について―
- どの開発途上国でもそうだが、水は当然そのままでは飲まないほうが良い。極端に言うと水で洗った食器も危険が伴う。住んでいた家の水も赤みがかかっていた(以前検査したときにコレラ菌が発見された由)ので、比較的見た目の良い透明感のある水が入手できる日本人学校まで運転手に頼みポリバケツで汲みに行くのが日課だった。一回煮沸しただけでは、細菌の胞子は死なないので、一旦、冷やしてもう一度煮沸するという念の入れようだった。実際、水割りに、水道水をそのまま凍らせた氷を入れて飲んだ日本人スーパーバイザーが何人か肝炎に罹り帰国した話を聞いた。従って、ビルマにいる時は、サラダは食べたことはなく、出されるのも温野菜だった。
- 赴任した当時、ビルマまでの直行便が無くバンコク経由で一泊したが、翌朝バンコクの町の通りでコーラ(氷入り)を飲んだところ、2時間後には何となく気分が悪くなり、いやな予感がしたので既にチェックアウトをしていたホテルに直ぐ戻ったところ、上からと下から(想像つくと思われるので詳細の表現は割愛する)すごい勢いで脱水症状になった。持っていた下痢止め、腹痛用、抗生物質など全ての薬を飲み、兎に角、夕方のラングーン行きのビルマ航空に這々の体で乗り込んだ。前日バンコクに向かう飛行機の中で読んでいた深田祐介著作の“炎熱商人”に、東南アジアなどの外国に行くと「先ず、ウェルカム・バウエル(歓迎下痢症)に見舞われる」と書かれていたのを鮮明に記憶した矢先の出来事で学習効果がないとよくよく反省したものだ。
- 一度、京都大学の細菌学専攻の教授がビルマを訪問し話を伺った際、ビルマは“細菌の宝庫”だから調査に来たと言われ、なぜか直ぐに納得したことが思い出される。
―ドリアンについて―
- 果物の王様といわれるドリアンだが、この臭いが好きな人はあまりいないと思う。ドリアンも当たり外れがあり、一度、クリーミーで本当に美味しいドリアンに当ったことがあった。ドリアンはアルコールと食べ合わせなので絶対に一緒に食べないようにと聞いていたが、某日系ゼネコンの取締役が出張でラングーンに滞在した時に、この食べ合わせで亡くなられ、現地で葬儀が執り行われた。本当に悲しい出来事だった。
―情報・通信手段について―
- テレックス:今では、利用している人はほとんどいないと思うが、当時は、国際電話料金も高くファックスもない時代だったので、東京の本部との日常の業務連絡はテレックスに頼っており、毎日、街の中心にある商社にテレックスを取りに行くのが日課のひとつだった。
- 手紙:事務所への郵便配達の制度もなく、毎日、街の中心にあるGPO(ゼネラルポストオフィス)に行き、私書箱の鍵を自分で開け確認するのだ。偶々、日本の本部から週刊誌が送られてくると、検閲され写真のページがよく切り取られていた。
- 新聞:日本の新聞が入手できるわけもなく、ローカルの新聞はビルマ語のため分からないので、赴任の期間中は新聞を全く読まなかった気がする。
- テレビ:数チャンネルあり、ニュース(ビルマ語)や娯楽番組もあったが、インドの歌と踊りの賑々しいものが印象に残っている。
―カメラ撮影について―
- ある時、日本から建築雑誌のカメラマンがひとつ前のプロジェクトの竣工写真を撮りに来て、帰国当日の午前中に街に出てくるからというので運転手付の車を貸したが、フライトの時間近くになっても戻って来ず心配していたところ、警察に捕えられているとの連絡があった。驚いて行ってみると、「(同業他社の施工した)病院を門の外から写していたところ、守衛に尋問され、フィルムを渡すように言われたが、せっかく撮ったフィルムを渡したくなかったので新品のフィルムを渡した。」とのこと。直ぐに現像され何も写っていなかったのがわかり、話がこじれたとのこと。勿論、その日のフライトには乗れず、警察署で尋問を受け、パスポートを取り上げられ、ホテルの一室に留まり外で警察に監視されるか、社宅のひとつに居て私が監督するかの選択を迫られ、カメラマンは後者を選び、結局、3日間、ビルマから出国できなかった。帰国の日は、空港で警察に監視され、警察官は飛行機が離陸した時間を書きとめていた。ラウンジから滑走路が見えるのだ。余談だが、出張者を見送りに行く時は、機体が視界からなくなるまで待つようにとの申し送り事項があった。飛び立った直後、何かの理由で飛行機が戻ってきた時があったそうだ。
- 日本から某専務が出張に来、市内を案内していた際、国会議事堂の前を通過し、そこから見えるビルマで最も美しいと言われる寺院ジュエダゴン・パゴダを背景に撮影しようと思ったが、議事堂の正門前に銃を持った警察が2人警備をしていたので、一応、写真を撮る許可を得ようと、車から降りて近づいて聞くと、2人から同時に銃口を向けられた上、議事堂の前に車を止めることが先ず許されないことと言われ、慌ててその場から逃げるように立ち去った。暴発していたらと思うとゾッとする。
―ブラックマーケットについて―
- 日本の戦後に存在していたことを聞いていたくらいだが、実際に、オープンな場所で色々なものを売っていた。
- 私が定期的に買いに行っていたのは、トイレットペーパーだった。ビルマの一般的なトイレは「水洗」といっても、トイレの中に水道の蛇口と小さな桶があり、手を使って洗うのでトイレットペーパーを買うのは外国人だけなのだ。私の部屋のトイレは一応、洋式の水洗だったが、水しか出ないシャワーと同じ部屋についており何とも侘しかった。
- ビルマは、稲作をしているのでお米は栽培されるが、比較的日本のお米に近く美味しいものとして闇米が売られていたので、時々買いに出かけていた。
―イミグレーションと通関について―
- 着任時に驚いたことは、飛行機から滑走路に降りて建物まで歩くことは当然だが、空港ビルには空調がなく天井に扇風機があるだけなので、非常に蒸し暑かったことが思い出される。
- 会社の事務所で採用していたビルマ人(ビルマ語・英語・日本語堪能)が、中まで入って来て、イミグレと通関を手伝ってくれたが、通関では荷物は全て開けてチェックされ、係員がスーツケース内のゴルフボールや帽子などの小間物をはじめ、タバコ、ウィスキー、カレンダー等を欲しがるのだ。これらは、自分で使ったり楽しむことはほとんどなく、ブラックマーケットに売ってお金にするとのことだ。年末近くなると、駐在員が自社のカレンダーを持ち込むので、日本のカラー刷りの美しいカレンダーは特に喜ばれ、翌日にはブラックマーケットの店頭で売られているということだった。通関のルールがあったのかどうかわからないが、人によっては、ウィスキーを1ダース位持ち込み、2〜3本係官に渡したり、タバコも10カートン持ち込み1〜2カートン渡して済ませたりしていたようだ。しかし、その係官を監視している人が後方にいるため、後で自宅にウィスキーを届けて欲しいと言う係官もいた。
- カメラやカセットデッキなどの電子機器の持ち込みも厳しく、入国時に全てを申告し、帰国時に同じものが手元にないとビルマ内で売ったのではないかと問題になった。
- 通貨は、申告し持ち込んだドルを所定の銀行でビルマ通貨チャットに両替するが、全て、一枚の用紙に記録を残す必要があった。チャットは出国の際、海外に持ち出せないので、当然、入国時には、チャットを持っていることがわかれば大変なことになるが、買いたい物がなく、飲み屋など遊ぶ場所もないため、ほとんど現地通貨に換えることがなかった。紙幣は臭いがするので、ほとんどの日本人はビニール袋に入れ持ち歩いていた。また、事務所用に銀行で両替して、チャットの札束を受取る時に驚いたのは、左上の端がホッチキスでガッチリと止められていたことだった。
―娯楽―
- 映画館:日本料理店も飲み屋も一軒もなく、これといった楽しみはなかったが、ビルマ人もよく行っていたと思われるのが映画館だ。2度くらい行った記憶があるが、結構満員で映画が終わって場内が明るくなると足元に所狭しと、ひまわりの種の皮がびっしりと落ちていたことが記憶に新しい。
- 日本大使館での映画鑑賞会:何のイベントか忘れたが、小津安二郎監督の「東京物語」、「秋日和」、「秋刀魚の味」など数本が放映され観に行った。これまで、この種の映画は見たことがなく、特に、ビルマで日本の古き良き時代のものを楽しめたことは意義深いものがあった。
- ビデオのレンタル:当時のビルマにもあったのかと驚いたが、日本映画のビデオがレンタルされて何本か借りたが、ビデオの操作を間違え数秒消去してしまい焦ったことがあったが、何度もテープを使えるようにツメを落とさずにしていたようだ。
- ゴルフ:民間人が利用できるゴルフ場は、2箇所あった。一族郎党でキャディーをし、暑いので日傘を差す人、前方でボールを待ち受ける人、池ポチャの時に飛び込んで探す少年、森に打ち込んだと思ったらキックが良かったのかチャンとフェアウェーに出て、しかもボールの下を盛り上げて打ちやすくなっていたり、微に入り細に入りの心遣い(だから上達できなかった!)で、帰るときには走って寄ってきて次はいつ来るのかと聞かれ、いくら早いスタートでもしっかりと一族で出迎えに来てくれた。彼/彼女達は手弁当を持ってゴルフ場を駆け巡っていた。乾季の時のフェアウェーは、土が乾燥してカンカンとよく転がるという状態だったので、どんなコースかは、想像して頂きたい。
- ダンスパーティー:もちろん舞踏会ではない。省庁(日本大使館勤務)、商社や各種業界、JICA、教師(日本人学校勤務)、などの駐在員で若い人達は、数週間に一度、夕方からそれぞれの自宅に持ち回りで招待し、食事(和食!)とカラオケ(カセットテープ)とダンス(駐在員の奥さん方は非常に上手だった)をしていた。ある時、一本の電話がかかり、「ダンスパーティーに来ませんか?」との誘いがあり、ダンスなどしたこともなく柄でもなく恥ずかしいのでお断りしたが、ダンスしなくても結構ですからとのことだったので、絶対に踊らなくても良いようにと下駄(何故か日本から下駄を持って行っていた)を履いて出かけたが、結局、下駄を脱いで、ダンスを少し教えられた楽しい思い出がある。
以上のように、ビルマでは、色々な経験ができたが、夢に出てきたことで覚えていることが二つある。一つは、水道の蛇口に口をつけて思い切り飲んでいる夢、二つ目は、熱い湯船に浸かってゆっくり風呂にはいっている夢だった。
本当にないものだらけのビルマだったが、果物など食物は豊富にあり現地の人達は餓死することはなく、信仰心が厚いからか、人々は至って温厚で明るく、日本人に対しても好感を持っていたような気がする。
赴任後しばらくして思ったのだが、ビルマでこれがないあれもないと思っても仕方がない、それより、ビルマには何があるのかを良く見ると、あれがあるこれがあるという視点に変わってきた。
着任した日に宿舎に向かう途中、車窓から沿道に並んだ濃緑色の葉が茂り真っ赤な花が咲く火炎樹を見て、何だ!ビルマって結構、緑豊かな国じゃないかという第一印象が忘れられない。品物や娯楽や情報が溢れる先進国から見ると、ビルマは決して豊かではないが、自由度の少ない閉ざされた世界の中で、少なくとも私の周辺で働いていた民間のビルマ人は生き生きとしていた気がする。
当時、外国人が泊まれるホテルはイギリスが統治していた頃の2軒くらいしかなかったが、今では新しく数軒のホテルが建設され、日本料理店もできたと聞く。
今なお続く軍事体制下で、中国との関係も深め少しずつだが変化しているミャンマーの行方には目が離せない気がしている。
以上
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