『人を感動させる話』


Energy USA Inc. 早船真一

最近、世の中に暗いニュースが多い。そういった中で、先月横田早紀江さんがブッシュ大統領に会い、ブッシュ大統領をして、「私が大統領になって以来、最も感動した会談の一つだ」とまでいわしめたことは記憶に新しい。

ブッシュ大統領が感動したのは、拉致された娘や被害者を取り返すべく、年老いても決してあきらめずに精力的に動き回っている横田さんご家族の支えあう愛があり、また、同じ苦しみを共有している人たちの助けになろうとしている姿勢と言うことであろう。家族の絆に重要な価値観をおいているブッシュ大統領の人間性がにじみ出ている。ただ、これにも増して、私自身驚いたのは、世界で最も権力を持っているといわれるブッシュ大統領が、外国の一個人・家族に焦点をあてて、忙しい時間を割いて面会したばかりか、自分の感動を吐露したことである。ワシントンに住んでいる方々は十分実感されているが、大統領はおろか、ホワイトハウスや省庁の「補佐」や、「副」、「代行」などの肩書きがつく人にあうことすら至難の業である。ブッシュ大統領および側近の人たちにとって、何らかの政治的な計算はあったに違いない。でも、今回の会見の結果は、政治的な計算を除外しても、ブッシュ大統領自身感銘を受け、また、拉致被害者救出のために尽力している方々にとってブッシュ大統領の暖かい反応は、勇気百倍与えるものであったであろう。

国のトップにあるものは、すべての個人に目を留めることができるわけではないし、政治と言うものは、冷酷非情な判断を要求される場合があることは否めないが、それでも人間として対応する姿勢を持とうとしている指導者がいることは、心暖まる話である。

感動という言葉は不思議な言葉でもある。私なりの勝手な解釈を加えると意気に感じて動くということであり、生きた人間にしかできない特権である。法人というのは感動しないが、利益のため、あるいは理屈が通ることによって動く。しかし、「利動」や「理動」という言葉はない。人間的な動きでないからであろうとも解釈できる。会社に勤務していれば、理動や利動によって物事を決断しなければならない場合も少なくはないが、生活のすべてが、理動や利動になるとみじめなものになる。家庭内の争いでも、男性は自分の理屈を持っており、それを押し通そうとする(と書いてしまうと、そうでない男性に対して申し訳ないが、少なくとも私自身の傾向としてそうである)が、理屈で勝って争いが収まるわけではない。理動や利動の判断基準に支配されると恐ろしいものである。

対照的に、感動する行為の裏に必ずあるのは、愛である。愛というと大げさに聞こえるし、言葉自体わかりにくいものであるが、相手に関心を払う、気持ちを理解し、共感する、励ます、赦す、願う、祈念するといった身近な行為も愛である。ブッシュ大統領が横田早紀江さんに対して、関心を払い、理解し、共感して力になろうといってくれたことは、心のこもった愛の発露である。一方で愛という言葉は重い意味でも使われる。明治の文豪・二葉亭四迷は、英語のLoveの訳語が定着する前に、相手のために死んでもいい、という趣旨の訳をつけたと聞いたことがある。無論、このように相手のために犠牲を払うことも愛である。相手が何を持っているか、何をできるかではなく、相手の存在自身を喜ぶことと定義する人もいる。どのようなものであっても、愛を通じて感動を与え、また与えられるということは、心が洗われる思いがする。

ヘレン・ケラーの話は有名であるが、ヘレンが世の中に有名になったのは、アン・サリバン先生の決してあきらめない根気のおかげである。ヘレンを教育したサリバン先生のことは、あまり有名になっていないが、サリバン先生がなぜ根気良くヘレンのことを愛し、教育できたのかということには、裏話がある。サリバン先生は9歳の時に母親が亡くなり、アルコール中毒の父親が娘を養育できなかったため、マサチューセッツ州孤児院に引取られ、自閉症で今で言う引きこもりであったそうである。でも、そこの看護婦あるいは召使の女性がサリバン先生に目を留め、暖かく励まし、また神に祈り、見事に自閉症から脱却できた。実はサリバン先生も5歳の時にかかったトラコーマのためほとんど目が見えず、教育を受ける機会を逸したが、生きる意欲を得た後にたまたま孤児院を視察に来た州の慈善事業委員長に「学校に行きたい」と強く訴えたのが功を奏し、14歳でパーキンス盲学校に受け入ることができ、そこで目の手術を受けて、かなり視力を取り戻し、1886年に首席で卒業するほどになったそうである。サリバン先生が、今は全く名も知られていない女性の愛を受けて、自分が立ち直ることができた感動が、同じような苦しみを持つヘレンを立ち直らせようという意欲になっていったのであろう。感動的な話である。サリバン先生を助けた女性も、きっと愛された意識を持っていたに違いない。

このような例は枚挙に暇がない。数年前までやっていたテレビ番組に、「世界(歴史)を動かした偉人」(本当の題名は良く覚えていないが)をやっていた。番組の編集チームは、各回の番組に取り上げた有名人の少なからぬ人数が、それぞれの偉業を達成できたのは、イエス・キリストに感動したことによる、ということをわかり、最終回の番組で、イエス・キリストを取り上げた。イエス・キリストの愛に触れられて、感動の連鎖の始まったものである。

振り返って世の中を見ると、日本では自殺者が毎年何万人といて、痛ましい限りであるが、生きる意欲を失ってしまうのは、失敗からくる挫折感により生きる目標を失うことと、愛されている意識の欠落からくる孤独感の双方があるからだと思う。ただ、マクロ的に見ればこの問題は表裏一体で、根源的には理動や利動という価値判断基準に支配されていることが、生活を蝕んでいるともいえるであろう。

社会に生きていく一人一人が、サリバン先生を助けた女性のように、身近な人に愛を注いで感動させることができ、あるいはブッシュ大統領のように、理動や利動の価値観が渦巻くなかにも、感動の要素を持ち続ける人たちが増えれば、世の中に人を感動させる話が多くなり、明るくなっていくであろう。自分自身、格好いいことは全く言えないが、まずは隗より始めよ、ということで、少しでもそのような意識を持ち続けて生きたいものと思う。

以 上