『ワシントンを去るに当って』


上村次郎

かっての商工会のOBとして1998年に再びワシントンに戻り8年が経過しましましたが、8月、永住の為日本に帰国する事に成りました。商工会の理事を務めた1986-90年の頃よりメンバー各社共3-4代の若返りが行われ、老害になってもと表には出なかった為ご存知無い方が大半と思いますが、角家会長より月報に寄稿を依頼されましたので、敢えてワシントンの昔話を含め3回に亘る滞在の印象と体験の一端を纏めて見ました。学生時代(1952-56年)、現役時代(1986-90年)、定年退職後(1998-2006年)の3回でワシントン滞在は通算16年、New York(1968-76年)、Pittsburgh(1994-98年)の滞在に加え数多くの出張も加算すると滞米期間は28年余と成ります。

プレリュード−人間の一生は天の定める事でこれを素直に受け入れるべきものと物心付いた頃より親に言われその様に生きて来ました。「日本と海外の懸橋と成る」事を天職として純粋培養された人間なので、2歳で外交官の父と共にLondonに渡り、日英間の風雲が急を告げる中で、太平洋戦争勃発前の1940年に日本に戻りました。戦時中は三井家が経営する戦前の海外子女教育校の啓明学園で、ご禁制の敵国用語英語で全て英語を受講。三菱の岩崎家の経営する成蹊学園(三井より先行)同様、三井・三菱共平和が復帰する事を確信し戦争中も国際教育を施し続けました。三井は英国イートン校に倣い全寮制の24時間教育。小学校5-6年の時は生徒1人に教師13人、国際人には確立した倫理観が必要と修身の時間は皇国史観ならぬ三井家が支援するスイスに本拠を置くMRA(道徳再復興運動)の信条「正直、純潔、無私、敬愛」を三井本家の方より1対1で伝授されました。これに対応する三菱の3綱領は「所期奉公−Corporate Responsibility to Society」「処事光明−Integrity and Fairness」「立業貿易−International Understanding through Trade」です。国際人には先ず日本人としてのアイデンティティー確立が必須(無国籍の根無し草は不可)と日本史、古文、漢文等を徹底的に叩き込まれ,寮に使われた建物は旧佐賀藩鍋島家の別邸を移築したもの、校舎は隣の旧伏見宮家の別邸で片や江戸時代の大名屋敷、片や京都の御所造りと正に生きた日本史的環境と8万坪の広大な自然の中で礼儀作法より日本固有の文化・自然環境保護の重要さを体得出来ました。最近経団連が中心と成り東海地区に国際人養成の海陽学園を英国のイ−トン校に模して作る由ですが、戦前の日本は子弟をイートン、ハロー等の英国の名門校に入りその後ケンブリッジ、オックスフォードに進学して国際人養成の素養を身に付けました。因みに、啓明学園の先輩には栗山・柳井元駐米大使が居られます。

  1. 米国での学生時代−1951年サンフランシスコ講和条約の締結で戦争も終結、6ヵ月後の1952年外交関係の復活と共に父に伴われ、1952年6月17日ワシントンのナショナル空港(現レーガン空港)に降り立ちました。ジェット機も日本の航空会社も無い時代、パンアメリカンのプロペラ機で給油の為、羽田−ウエーキ島、ウエーキ島−ホノルル、ホノルル−サンフランシスコ、サンフランシシコ−ワシントンの2昼夜を要しました。

    • ワシントンの初印象−空港よりDupont Circleのホテル迄緑に彩られたLincoln, Jefferson Memorial、Rock Creek Parkway、フランス人Lafayetteの設計に成るパリを模したサークル中心の整然たる放射線状の都市設計に驚嘆する一方、余りの暑さに仰天。大使館の方から道路に卵を落とせば目玉焼きが出来ますと聞かされました。(温暖化が進んだ今日より冷房が完備して居なかったせいか暑い印象)

    • ワシントンの町−政府官僚、議会要員、外交官だけの小さな田舎町。Washington Cathedralが北限で、Chevy Chase等は郊外の別荘地, N.W.は黒人の居住は勿論、ホテル、レストラン、映画館はoff-limit。バスは中心に金網が張られ、黒人は後部より出入りする徹底した差別化時代。水冷の空調機が僅かに導入された時代で夏は政府関係者は争って街より逃げ出し、買物は10-14th STとF-G STの一角のみ。気の利いたレストランは殆ど無し。(各国大使館は料理人を同伴)Massachusetts Ave.の大使館は戦時中敵国財産として接収されて居たものを返還して貰い、開館の在庫調査で名画を始め全ての家具・調度が完璧な状態で維持・保管されて居た事が判明一同大感激。現在の事務棟の場所は、当時はテニスコ−ト。

    • 高校時代−日本の高校2年に進学して直ぐの転校。但し日本の高校はドイツ人の経営するカトリック校で英語は全て英語での教育。英語が出来た小生は16カ国を操るベルギ−人の神父にフランス語とラテン語の特訓を受けて居たので英作文を除きそれ程不自由は無く、マッカーサーの教育改革に反対し戦前の日本の教育は軍国主義、皇国教育を除いてはスパルタ教育を含め米国より勝って居ると戦前の教育水準を維持した為、ワシントンの域内のWestern High School (商工会も賛助金を拠出した現在のDuke Ellington High School−当時は白人only)の理科学教課は物足らず、試験にパスした科目は全て単位を貰い3年に飛び級、米国史、米国憲法、英文学、英弁論、英作文等に集中、日本人が余り注力しないPublic Speakingの重要性を痛感しました。(自己表現とプリゼンテーション技能の修得)

    • 元敵国国民で米国一番乗り、苛めや侮辱に会っても我慢する様周囲より注意されましたが、進駐軍の将軍の日本育ちの息子や自治会会長のドイツ進駐軍の将軍の息子が徹底的に面倒を見て呉れたので苛めは勿論Jap等と言われた事も一度も有りません。逆に米国の軍事教練とはどの様な物かと課外の軍事教練に参加、地図が読めない米国人を相手にMap Reading Contestでワシントンの高校部門で優勝、射撃では2位と成りました。

    • 到着後直ぐに自動車学校に電話をした処、30分後に玄関に自動車学校の車が乗り付け、運転台に座らされて直ちに路上運転。エンジンの鍵の懸け方と当時はクラッチは全て手動なので入れ方だけ5分教えて路上に。最初の数回は大変な緊張でしたが、「論より実践」の米国式教育の洗礼をいきなり受け、暫くしたら運転免許を取ろうと試験場に連れて行かれました。余りの速さに、取得資格の18歳に達して居らず恐る恐る試験官に未だ17歳と言ったら先ず運転しろと言われ問題なしと免許証を交付して貰いました。申請書にWhiteかColorか記載する欄が有り黄色人種はどちらかと聞いた処、国籍を問われ日本と答えたらWhiteと言われ日本人はhonorable whiteで有る事を認識しました。高校の飛び級もそうですが年齢制限等に拘らず、知識や技能を身に付けたら資格を呉れる柔軟性と合理性は日本より来た人間には驚きでした。大学も結局3年で学位を呉れました。

    • 高校で初めて米国の民主主義が何か習いました。Lincoln大統領時代は閣僚は5人。閣議で論が分れ賛成1票、反対4票よって賛成と決ったと大統領が宣言。賛成票は大統領自身が投じたからで米国大統領の持つ強力な独裁権を物語って居ます。国民の投票による信託を受けた政策を実行に移す為、結論が纏まり難い民主主義では強大な権力が必要です。但し、意思決定を誤れば次回選挙で落選するか弾劾される事も有ります。その後ニクソン、クリントン大統領の議会での弾劾訴追をつぶさに見て行政府の強力な権限とこれに対応するCheck-and-Balanceの歯止めが機能する米国流民主主義の本質を身近で検証する事が出来ました。

    • 田舎の大学の寮生活−父の教育方針で大学は日本人が絶対に居ない事(Georgetownには既に20名位の日本人が在学)周囲30マイルにも日本人が居ない条件でカタログを調べMarylandとPennsylvaniaの州境に近い全寮制の男子制大学に入りました。日本食皆無、24時間米国人と寝食を共にし自宅より通学して居た高校時代とは全く違った米国人の側面に接し理解度を深めました。田舎なので唯一の日本人は珍しく、在校生700人は勿論10マイル四方で名前も顔も知られ、苛めや嫌がらせは皆無。寧ろ皆から遠国の留学生として特別の配慮を受け良き時代の良き米国の人情に接し人生の最も懐しい思い出の一つと成りました。

    • Georgetown大学−田舎の大学で取れる単位は全て取ったので国際法、外交史,売り物の地政学等、より専門的な知識を習得する為GeorgetownのSchool of Foreign Serviceに転校しました。「門前の小僧」で幼い時より世界史や外交問題には日常的に接して来たので、比較的自然に知識を吸収出来ました。太平洋戦争で日本の軍部が如何に地政学的発想に乏しく日本を破局に追い遣ったか良く分りました。同校の金看板で有った地政学部門はその後シンクタンクCSISとして独立し、80年代企業人として赴任した際、日本もトヨタ.京セラ、東電等が巨額な賛助金を出した事も有り大変お世話に成りました。日米協会のブリア会長もCSISに居られました。

      • 日本よりのツナと蜜柑の缶詰めの対米輸出増加で後の日米貿易摩擦の萌芽が見え始めました。教授の指導でデンマークのブルチーズの輸入制限に対する議会の調査の手助けをしました。如何に僅かな米国メーカーが地元の議員を動かし既得権益を擁護するかその仕組みや議会の政治力学も良く理解出来ました。30年後日本企業のワシントン事務所長としてその知見をフルに利用出来るとは当時は全く考えても見ませんでした。

      • 日本は島国として鎖国主義の誘惑に絶えず曝されます。米国も太平洋と大西洋に浮かぶ大きな島国でこちらも孤立主義、モンロー主義の誘惑に陥ります。門戸を閉ざした日本と保護主義が絶えず台頭する米国との共通項課題への対応が両国の摩擦回避にどれ程重要かも良く認識しました。「多様性こそが創造の源泉」。異質のものを排除するのではなく多様性の中に価値を見出し、シナジーを求める事こそが国際性の本質と言う教訓はその後最も貴重な指針と成りました。

      • 日本の学生は既に50年代初期よりガリオア、イロア基金等で数は限られて居ましたが米国に留学して居ましたし大使館にも将来を嘱望される官補の方が配属されました。後に国連で活躍された波多野大使、Georgetownには最近退任された吉沢東京三菱銀行副頭取、大学院には国連高等弁務官として活躍された緒方貞子、同時期にPennsylvaniaのWartonに留学された経済同友会の小林陽太郎、小生のワシントン事務所の前任者でHarvardに留学した三菱商事の元社長・会長、日米財界人会議日本側議長の槙原稔等その後の日本の国際貢献や日米関係強化に大きな足跡を残した人材が多数留学して居ました。敢えて旧敵国の学生に奨学資金を提供し、健全な国際人の育成を図り乍ら米国の国益にも繋げると言う叡智は今日日本も発展著しいアジア・太平洋諸国に流用し20−30年先の地域の発展と平和に繋げる深慮遠謀として見習うべきでしょう。

  2. 現役時代−「商社冬の時代」への対応策として従来の商流の口銭手数料収入依存より自ら事業リスクを負って事業収益で稼ぎ生き残りを賭ける方向転換は多くの総合商社が高度成長期後の70年後半―80年前半に実施しました。三菱商事での大規模な行政改革による方向転換の事務局を勤め、その実践の為サウデイアラビアに出向し石油化学事業を基盤に乗せた体験を積んだ上で、風雲急を告げる日米関係の前線部隊として1986年7月にワシントンに全日空の処女便で赴任しました。

    • 街のたたずまい−出張で何回か訪れて居るとは言え、かっての田舎町も中小都市より大都市への変貌を遂げて居ました。昔は地の果てと思われたBethesdaは日本企業の駐在員のベットタウン。70年代の暴動で荒れ果てたダウンタウンも再開発で見違える様に蘇り、日本食料品店やレストランも何軒か見られる様に成りました。フランス、イタリア料理店もそこそこの店が何軒か出来世界の中枢の国際都市としてのインフラも漸く整って来ました。

    • 政治・経済的変化−1970年代後半の航空機業界の自由化はPan-American、TWAの破綻と業界再編を促し、電力自由化(これがEnronを産んだ)、Bellの独占体制の解体(情報通信業界の戦国時代の開幕)、プラザ合意による米ドルの事実上の平価切り下げとこれによる円高と日本のバブルの到来、一向に是正されない日米貿易の不均衡、レーガン大統領と英国のサッチャー首相による「小さな政府」「民営化」「地方分権」のレーガン・サッチャー革命の進行、冷戦の終結による「平和の配当」への期待等この時期に大きな地殻変動が見られました。これらの変革の潮流を先取りし新たな事業機会・商権を狙って企業は争ってワシントン駐在員を増したり本拠を近隣に動かし、政府機能のアウトソーシングにより巨大な商権が生まれた為、人口も急膨張しワシントンの大都市化を促しました。特に政府の情報化を民間に外注する政策転換はDulles Corridorと言われるダレス空港へのハイウェイ周辺に一大情報通信産業都市を現出させました。日本も情報通信産業の育成を標榜するのであれば、思い切った自由化・規制緩和・政府の情報通信網構築を民間に外注すれば達成可能と思われ、既に米国、欧州(特に北欧)で実証されて居ます。

    • 日米関係−冷戦の終結は日本の軍事的パ−トナ−としての最優先度より経済・貿易の競合相手・脅威の側面を浮き上らせ微妙な視点の移動が起きました。既に触れた日本の鎖国主義、米国の保護主義の台頭が表面化し”Japan Bashing”の最盛期を迎えます。円高とバブルは日本企業の米国企業や資産の買収を招き、ワシントンのホテル・オフィスビル(含む司法省の建物)等も買収されホワイトハウスと議会が何時日本に買収されるかとマスコミが騒ぐ事態に迄発展しました。他方、日本側は「米国より習う事は既に何も無い」と豪語する有様で当時流行った一口噺として;

      • 「イランで日・米・仏」の企業派遣社員が逮捕され処刑される前に、最後の願いを陳べる様に言われた処、フランスは「フランス万歳」を叫んで処刑され、次の日本人は「最後に日本の経営ノウハウを米国に伝授し度い」と言うのを聞いた米国人が「日本人の講釈を聞く位なら自分を先に処刑して呉れ」と叫んだ。

      • 日本はGDPの1%の5兆円しか国防費に使わないが、20兆円がパチンコ屋で使われて居る。(国防上の協力・貢献より遊びに熱中)

      • Bush大統領(Senior)は珍しい眠り病を患い3年の長い眠りより覚めて最初に問うた事は「処で葉書は今何円か?」(眠って居る間に米国通貨が円貨に置き代った)

      米国の自信喪失と日本の自身過多がない交ぜと成った文化摩擦の風刺です。

    • 摩擦がエスカレートすると良く議会や政府要人から呼び出しが懸かりました。「米国側の一方的な主張しか聞えて来ないが日本側の言い分を聞かして呉れ」。お陰で上院議員の定員100人中60人以上と接触し、下院の予算・通商委員会の議員・議員スタッフには絶えず説明に出掛けました。通商代表部、商務省、米国商工会議所よりも絶えず口が懸かりましたが、相談の大半は日本の対応を詰問するものでは無く、建設的、前向きの解決策を図るにはどうしたら良いか?日本の対米投資活動は歓迎するが日本の企業誘致は如何に行うべきか?「日本側にspeak-upさせるにはどうしたら良いか?」と寧ろ日本側がそれなりの対応をすれば相互に利する方策を模索して来ましたし、事実その方向に誘導しました。

    • 硬化する対日感情を和らげる為、商工会の役割が再検討されました。商工会メンバーが現状の認識を深める為、「時の話題」に触れた月例の研修会が制度化され今日迄引継がれて居ます。(1969年三菱商事がワシントンに事務所を構えた際、既に東銀、丸紅が駐在員を派遣し、3社の情報交換会・時局勉強会がメンバー増加に伴い定期的な研修会に発展したもの)地域貢献の為の資金集めと配布の為商工会を非営利団体とする申請を2年懸りで行い89年に受理されました。但し、メンバーの寄付金の免税措置は取られて居らず今後の課題として未だ懸案として残されて居ます。

    • 当時日本に対する関心も高く中高校よりの日本語・日本文化の日本カリキュラムを導入する動きも有り、公立高校以外に私立の名門St. Albans等私立7校もその採用に踏み切り、商工会はこれを物心両面より支援しました。因みに当時のSt. AlbansのPTAにはクエ−ル副大統領。ゴア上院議員(後の副大統領)、ロックフェラー上院議員(キリスト教大学に留学し日本語も堪能な上院切っての知日派)、ハインツ上院議員(ケチャップのメーカーでお馴染みのHeinz家の御曹司。航空機事故で急逝後、未亡人は前回民主党大統領候補Kerry上院議員と再婚しました)の有力議員が目白押しで商工会もその要望に応えました。昨年St Albansが日本語弁論大会の全米優勝校の栄冠を克ち得て努力が報れました。”Japan Bashing”等とマスコミが騒いでも、米国の有力者は将来を見据えて令息連に日本の勉強をさせ国際性を身に付ける努力を積まして居ます。「島国」米国も国際化が課題の国なのです。その後、ロックフェラー上院議員は地元West Virginiaに全寮制の大学を日米合弁で設置します。生徒の60%は米国人、40%日本人ですが、未だ柔軟性の有る若者を4年間寝食を共にさせる事で日米間に横たわる文化的障害を取り払おうとする遠大な計画です。当時設置場所のSalemに近いPittsburghに駐在して居たので、Pittsburgh.の日米協会(日本の現地進出企業は前者参画)として全面支援をしました。

    • 近隣の大学より日米問題の講演の依頼は絶えず,切りが無いので,Georgetown University, George Washington University, George Mason University, American University, University of Marylandの5校に絞りましたが, SAIS (John’s Hopkins University, School of Advanced International Studies)にもパネリストとして何回か出掛けました。

    • シンクタンクのBrookings, CSIS, Wilson Center等には企業の派遣研究員も常駐し、American Enterprise, Heritage, Cato Institute等のシンクタンク共各種の会合の協賛をしました。今から20年近く前の当時、Catoより日本の郵政民営化の提案を受けました。

  3. 定年退職後のワシントン−1994年より4年間三菱系化学企業5社で買収したUSXの化学品部門を日本人乍ら役員・社員は全て米国人、米国方式で経営し現地化の実を挙げる為派遣されました。この時期の米国現地企業の日本人CEO(最高経営責任者)或いは社長は約700人。2/3以上の企業は黒字経営、16%は高収益会社。日本人には米国企業の経営は出来ないとの「神話」は打ち破られ、国際化に伴う対米企業進出と現地化は着々と実績を挙げて居ました。周囲の勧めも有り定年退職後ワシントンでコンサルテイング業を始めました。日本企業の金看板を背負う事無く企業経験を活かし乍ら、個人として日米間の橋渡しの手助けを行う事が目的でした。

    ワシントンの変貌−冷戦体制崩壊に伴うスーパーパワーの米国一極集中化はワシントンを世界の政治・軍事の中枢とし大都市化を促進しました。半世紀でかっての田舎町も国際都市に変貌し、各種のインフラも整備されました。一方政治力学も変り、日米間の経済摩擦も米中間の関係に焦点が移行し、アフガニスタン、イラク戦争等で緊急・深刻な問題を抱えて居ない日米関係はマスコミの”Japan Bashing”が”Japan Passing”に変り、最近の日米首脳会談も両国の政治・軍事・経済関係より、寧ろプレスリーの生家での小泉首相のパフォ−マンスが話題に成る程度と連日日本問題が一面を飾った80年代とは様変わりと成りました。

    • リスクテーキング−80年代のバブルとその崩壊に伴う「失われた15年」を歴史がどの様に評価するかその審判に委ねるとして、(米国では失われた15年では無く深く、静かに構造改革が潜行した15年との見方も生まれて来ました)「羹に懲り」且つバブル期の反動で日本のリスクテーキングの意欲が大幅に減退した事は否めません。反面太平洋に面する米国は最も高度成長が期待されるアジア・太平洋経済圏への参画意欲が旺盛で、此処にリスクに挑戦する米国と守勢に転じた日本との格差が生じました。Bush Seniorの主要閣僚が中核のファンドや他の幾つかのアジアファンドの立ち上げの手助けをしましたが、漢字の「危機」は「危-Risk」と「機-Opportunity」が背中合せ。”High risk high return, low risk low return, no risk no return”の認識の下に米国はアジア地域に大きくパイを張りましたが目下収穫期に入りました。日本では「禿げ鷹外資」と呼んで居ますが、自分でリスクを負わずリスクを負った先を儲け過ぎと非難しても負け惜しみの謗りを受けるだけです。それにしても、萎縮して徹底的にリスクを負わない日本とそれに付け込んで買い叩く米国側と何れの側にも問題が残ります。ライブドア、村上ファンド何れも司法のメスが入りましたが、外資を導入する以上欧米の投資家の冷徹な経済原則即ちどれだけ高いリターンを保証するかの意向が反映され、背伸びをせざるを得ない立場に追い込まれるのでしよう。日本で通常米国のファンドが要求する15-20%/年のリターンと5年位のExit Scenarioを加味した年平均数十%のリターンを齎す事は尋常な手段では無理が有る事を理解して置く必要が有ります。

    • 今1つのリスクテーキングはベンチャー企業への資金供与・出資です。ワシントン近辺のベンチャー企業の9割は初年度で破綻と言われ米国でも初期投資のリスクを踏む先は極めて限られて居ます。Greater Washingtonの自治体・政府関係者にも懇望され民間が1/3公的資金2/3でベンチャー企業の初期投資用ファンドを日本側にも出資も仰ぎ立ち上げました。新技術の目利きは専門家に任せるにしても、ベンチャー企業は金以外にも経営管理能力や販売力、人材等ないない尽しです。コンサルタントの出番では有りますが、おんぶに抱っこの事態を覚悟する必要が有ります。(頭で考えるベンチャー企業支援と直面する現実との認識のギャップ)お陰で、現役時代以上の多忙を極める破目に陥りました。

    • 幸い百万分の一確率で成功して大富豪になったBill GatesとWarren Buffetの到達した結論は、自分で使える範囲の金は知れたもの,溜めても死後税金として官僚に無駄使いされ、必要以上の金を子孫に残せばぐーたらに成るだけ。ならば自ら不治の病の対策の研究や教育の資金を提供しようと言う結論に成りました。此処でも次世代の為の教育投資がテ−マに成って居ます。商工会の教育投資も当然実を結ぶでしょうが最後に日本で勉強して来た米国青年の次の声を聞いて下さい。(最近は地方の中学等で勉強しなまじな日本人より日本的)

      • 日本語で最も嫌いな言葉は「ガイジン」(幾ら努力しても外の人として内の人と差別される。彼等には一種の差別用語)

      • 日本人が考える以上に米国人でも日本文化や人情の機微が理解出来る。(日本人以外に日本固有の思考や情緒は分らないと言う差別への不満)

      • 日本の学校で最初に教える事は日本は小さな島国で資源小国で有る事。世界有数の勤勉で教育程度の高い人的資源を抱え、自由貿易で全世界より資源を集めて世界第2位の豊かな国がこの様な自虐的な心情を子供に植え付け続ける必要が有るのか?(裏返しは自らの豊かさと恵まれた国で有る事を認識させ、より恵まれない国への発展に貢献する“Noblesse Obliege”−高貴なる責務の自覚を持たせる事こそが必要。これが出来れば日本の国際評価も大きく変わる)

日本の真の国際化は意外に全く違った側面より実現するかも知れません。ワシントン郊外のバイオ技術の著しい進歩で個人の遺伝子配列が解明される事はそう遠くない将来に実現可能と思われます。これによる医学への貢献が量り知れない事は広く知られて居ます。他方、個人の遺伝子配列で祖先のルーツも解明出来るでしよぅ。「純粋なヤマト民族」も韓国、中国、蒙古、東南ア、ポリネシアの血を引き米国人同様の多民族の混血で近隣諸国と同系の祖先と判明した時、「天孫ヤマト民族」の呪縛より解放され、同類の異民族も受け容れられる真の心理的な国際化が図られるかも知れません。学生として、ビジネスマンとして、又個人として何の分け隔ても無く受け容れて呉れたワシントンを去るに当り、日米を始めとした国際協力で進められたDNAの解析が究極的には日本の国際化の最後の心理的な発想の障壁を取り払い、多様な人種や発想をも受け容れられる新しい世代の誕生を齎す事を願って本稿の締めとさせて戴きます。

以 上