『周回遅れの映画評論シリーズ』
「スーパーマンの愛と孤独:映画Superman Returns」


東京三菱銀行ワシントン駐在員事務所
所長 竹中 正治

【スーパーマンなんて陳腐化した勧善懲悪ヒーロー・キャラ?】

「スーパーマン」、こんな使い古されたネタとキャラで面白い映画ができるのか? だいたいスーパーマンなんて陳腐化した勧善懲悪のヒーロー・キャラを無邪気に喜ぶのは、マクドナルドのハンバガーを食べて美味しいと感じているコテコテのアメリカ人ぐらいなもんだろう?

スーパーマン・シリーズの最新作Superman Returnsを見るまでは、私はこの映画に極めて懐疑的だった。ところが意外! なんとも上出来の映画だ。米国に暮らして3年余、もしかすると、とうとう私の感覚もアメリカ流に毒されて来たのだろうか? しかし、1978年からのクリストファー・リーブによる旧シリーズ以降のスーパーマン映画で、今回の映画は最高の出来映えだと言いたい。もっとも、4作あるクリストファー・リーブ主演の作品で、私が見たのは第1作と第2作のみ。3作目以降は、プレビューを見ただけで、ジャンクな臭いがしたので見ていない。

今回の映画で、スーパーマンは5年前に地球から忽然と姿を消したことになっている。彼はどこに行ったのか? 彼の母星クリプトンに行っていたのである。しかしクリプトンはスーパーマンの父が予測した通り、終末を迎え、大爆発と共に宇宙から姿を消す。スーパーマンは超光速ロケットで再び地球に戻って来る。そこから今回の物語が始まる。

【昔の恋人は彼を待ってはいなかった】

赤ん坊の時に父のロケットで始めて地球に到着した時と同様に、隕石の如くクリスタル型ロケットは大音響をあげてケント農場に不時着する。しかし育ての父ケント氏は彼が地球を去っていた間に亡くなり、老いた母ミセス・ケントが戻って来たスーパーマンを抱きしめる。 彼は再び巨大都市メトロポリスの新聞社デイリープラネットの記者に復職する。職場に戻ったクラーク・ケントはスーパーマンの恋人だった記者ロイスのデスクに置かれたひとつの写真を見て愕然とする。写真にはロイスと社主の甥リチャードの仲むつまじい姿、更に二人の子供と思われる可愛い男の子の姿が写っていた。

かつての恋人ロイスはスーパーマンを待っていてはくれなかったのだ。それだけではない。ロイスはピューリツァー賞を獲得して有名ジャーナリストになっていたが、彼女が賞を獲得したレポートのタイトルは、「なぜ世界はスーパーマンを必要としないのか」である。ロイスも、世界も、かつてスーパーマンの活躍を喝采した時の気持ちを失ってしまったのだろうか。ケントは呆然と立ちすくむ。 しかしロイスの立場からすれば、「ろくな説明もなしで、突然地球から姿を消して5年。戻って来ることを期待して待っていろと言う方が無理でしょ!」 まことに、ごもっとも。男にはこういう身勝手な性分があって、勝手にアドベンチャーに出かけたまま音沙汰無しになる。それでいて戻って来た時に恋人は自分のことを待っていてくれるなどとヌケヌケと期待するものだ。歌にもあるでしょう。

気分次第で、抱くだけ抱いて、

女はいつも待っているなんて、

坊や〜、いったい何を教わって来たの?

(山口百恵、プレイバック・パートU)

【5年ぶり、突然の再開】

スーパーマンは、ロイスと社主の甥リチャードが息子と暮らす郊外の邸宅まで飛び、幸せそうな3人の姿を見て、ため息をつく。「鋼鉄の男」が味わう悲哀。しかし、スーパーマンがロイスの前に姿を現す時が来た。スペース・シャトルをジャンボ・ジェットの背に乗せて、大気圏外に飛ばす飛行が行われた。ジャンボ・ジェットには報道関係者を含む多くの来賓が乗っており、ロイスもそのひとりだった。ところが、事故1でジャンボ・ジェットとスペース・シャトルの切り離しが出来なくなり、旅客機と接続したままシャトルのロケット噴射が全開となってしまった。ロケットの強力な炎で旅客機の尾翼は炎上を始め、このままではもろ共に墜落する。

危機を知ったケントはスーパーマンに姿を換え、旅客機とシャトルに向って飛ぶ。シャトルを旅客機から切り離し、軌道に乗せるが、下を見ると旅客機が尾翼を炎上させながら、メトロポリスに向って落下している。スーパーマンは旅客機を追って急降下する。メトロポリスの大球場に激突する寸前でスーパーマンは旅客機を止め、球場に不時着させる。球場の観客は5年ぶりのスーパーマンの登場を大歓声で迎える。「みなさん、もう大丈夫ですよ」と彼が旅客機の中に姿を現すと、登場客のひとりだったロイスは5年ぶりの突然の再会に驚き、声も出ない。

スーパーマンが戻って来たことで世間は大騒ぎになる。デイリープラネットは社をあげてスーパーマンをスクープしようとするが、なぜかロイスはその仕事を避けようとする。心の中で揉消したはずの彼への愛慕が再燃してしまうのを恐れたのだ。この気丈な女、ロイスの演技がけっこう可愛い。

ここから先のストーリーはまだ見ていない方のために省略するが、重要な「仕掛け」はロイスとリチャードの息子として登場した幼い少年が、実はロイスとスーパーマンの子供だとストーリーの展開の中で判明することだ。旧シリーズをご覧になった方なら憶えているだろうが、スーパーマンUで彼は一時的に人間に転換し、ロイスと一夜を共にする。その時に出来た子だ。この子役の少年、4、5歳だろうか、名前も知らないが、実に可愛い。大人は誰もクラーク・ケントがスーパーマンだと思いもしないが、この少年の先入観のない目は、「なんだか二人は似ているなあ」とまるで見抜いているかのようである。少年も超人的な力を秘めている兆を示す。悪役レクスらに捕らわれ、母ロイスが悪党のひとりに襲われた時、少年は重いピアノを発作的に叩きつけて母を守る。しかし、少年はまだその力に覚醒していない。

【非政治的ヒーローとしてのスーパーマン】

墜落する旅客機をスーパーマンが救出するというプロットを選んだ時、映画製作者らは「テロリストにハイジャクされた旅客機がランドマーク・タワーに突っ込むのをスーパーマンが阻止する」という筋立てを当然検討したはずである。そうすれば観客に9・11テロ事件を想起させ、強い印象を与えることができる。しかし映画の製作者らはそれを選ばなかった。なぜか? イスラム・テロは犯罪であると同時に、非常に政治性の高い現象である。善悪で白黒を仕切ることの出来ない政治的な状況に、スーパーマンという典型的な勧善懲悪的キャラを置いてしまうと、ひどい陳腐な結果になる。映画製作者は賢明にもそれを避けたのだ。実際、映画の中でスーパーマンは人々を助けるために、世界中のいたる地域に登場するが、イスラエルとパレスチナの紛争場面には登場しない。善悪の区別が混沌としている政治的な状況は彼の世界ではないのだ。 「テロは疑う余地のない犯罪ではないのか?」 ところが、そこから派生した米国のイラク侵攻は果たして正義だったのか? 多くのアメリカ人自身が今判らなくなって来ている。ブッシュ大統領は別だが・・・。

非政治性、これはスーパーマン映画の限界であると同時に、それを楽しむための前提のようなものだ。1960年代、日本でも左翼学生運動の盛んだった時代に、「アトムなんていう非政治的なキャラクターが正義の味方、ヒーローとして活躍するストーリーは欺瞞的で、結果として体制擁護思想に他ならない」と手塚治虫は一部の左翼学生から批判されたと何かで書いていた。なんでも政治的な問題に還元しないと気がすまないというのも、狭隘な見方だ。それでもアトムはロボットと人間の対立という「空想的な政治対立」の狭間で悩むので、スーパーマンよりは複雑な状況が設定されていたことになる。

【Jesus Christ Superman?】

この映画が封切られて直ぐに、CNNがWeb Siteの記事で“Jesus Christ Superman”という評論を掲載した。勿論これは70年代にヒットしたロック・ミュージック“Jesus Christ Super Star ”のもじりである。実際、今回の映画の中のスーパーマンには、イエスのイメージを想起させる場面がいくつかある。例えば、スーパーマンの父は惑星クリンプンの崩壊と共に滅ぶが、その魂は今もスーパーマンの心に語りかけて言う。「息子よ、私は地球の人類を正しい道に導くために、おまえを地球に送ったのだ。」 5年前にスーパーマンの手で監獄に繋がれた悪の科学者レクスとその徒党がスーパーマンの唯一の弱点であるクリプトナイト(惑星クリプトンにあるクリプトン人に有害な鉱物)を隕石から手に入れる。彼ら悪党がクリプトナイトのために力を失ったスーパーマンを袋叩きにするシーンは、イエスの受難でイエスが刑罰の鞭打ちでボロボロになるシーンを彷彿とさせる。スーパーマンはクリプトナイトを身体に突き刺されて、海中に没するが、からくもロイス達に助けられる。この後スーパーマンは、レクスがスーパーマンのクリスタルを盗んで作った巨大なクリスタル島を岩盤から切り離し、両肩に担いで大気圏外に放つ。クリプトナイトの毒に再び犯されながら、スーパーマンが死力を尽くすこのシーンは、重い十字架をかついでゴルゴダの丘に登るイエスを想起させる。

この後、力尽きた彼は大気圏外から地上に落ちて動かなくなる。スーパーマンは死んだのか? スーパーマンは病院に運ばれるが、注射針も通らない「鋼鉄の男」に治療ができるはずがない。昏睡を続ける彼を世界は息をのんで見守る。ロイスは再び執筆を始めようとする。タイトルは「世界はなぜスーパーマンを必要とするか」である。数日後、病院のベッドで昏睡を続けるスーパーマンをロイスと息子が訪れる。ロイスは昏睡する彼の耳元で息子にも聞かれないように、何かをささやく。映画観客にもその声は聞こえないが、何をささやいたのかは明らかだ。「この子はあなたの息子です」と告白したのだ。 翌日、看護婦が病室を除くとスーパーマンの姿はベッドには無かった。復活したのだ。イエスの復活のアナロジーを感じさせる。

しかしこうした表向きのアナロジーにもかかわらず、この映画の宗教的な含意を語ろうとするのは間違っている。事実はむしろ逆さまだろう。すなわち、今日語られているイエスのイメージは、古今東西の多くのヒーロー伝説と共通する要素を盛り込まれているのだ。様々なヒーロー伝説には共通して「ヒーローの使命、試練・苦難、復活」の要素が盛り込まれている。それが古今東西、大衆の人気を得る要素だったからだ。

【アメリカ人の空想的自己の分身としてのスーパー・ヒーロー】

アメリカ人にとって世代を越えた3大スーパー・ヒーローと言えば、スーパーマン、スパイダーマン、バットマンであろう。 いずれのキャラクターも、世代を超えてリメイク版の映画やコミックが製作され、子供から大人まで受け入れられて来た。これらアメリカ人の3大スーパー・ヒーローに相当する日本のキャラクターは何か? 世代を超えてリメイク版がヒットしているという点で選ぶと、鉄腕アトム、ウルトラマン、ゴジラであろう。「ゴジラがスーパー・ヒーロー?」と思う方がいるかもしれないが、凶暴な怪獣、一種の「破壊神」として登場したゴジラは、その後は宇宙怪獣から地球を守る正義の味方に転じているので、立派なスーパー・ヒーローである。

日米の3大キャラクターを比べて、その違いに気がついた。アメリカのスーパー・ヒーローは人間(バットマン)、人間の変異(スパイダーマン)、完全人間型異星人(スーパーマン)である。 一方、日本のキャラクターはロボット、非人間型宇宙人、怪獣である。この違いの意味はなんだろうか? アメリカのキャラクターが人間(型)である理由は簡単だ。アメリカ人にとって、スーパー・ヒーローは空想の中での自己の分身なのだ。つまり自らのヒーロー願望の化身である。従って人間型であることが必要になる。このヒーロー願望はアメリカ男性のみでなく、女性にも共通するようだ。だからスーパー・ガール・キャラクターも様々に製作される。日本アニメ、セーラームーンがアメリカの女の子達の間で大人気であるのも、彼女達のヒーロー願望を満たしてくれる最適のキャラクターだからだ。

それに比べると、アトム、ウルトラマン、ゴジラに代表される日本のキャラクターを繋ぐ共通項は難しい。非人間型であることだけは共通する。直感的に言うと、これら日本のキャラクターに共通するのは、日本的な神の概念かもしれない。つまり“God”ではなく、「八百万の神々」である。コジラは「破壊神」、ウルトラマンは「天空神」、アトムは「機械神」である。この点は、また別の機会に考えてみよう。

【ヒーローの愛と孤独】

スーパー・ヒーロー映画の出来映えの良し悪しは、ストーリーの中でヒーローにどのような試練を与えるかで決ってくる。スーパー・ヒーローが無敵の強さを誇るだけのストーリーでは、初回はともかく、それ以上は続かない。通常はより強力な悪役を登場させることで、観客を惹きつけようとする。しかし今回のSuperman Returnsが設定した「ヒーローの試練」は悪役レクスとの戦いだけではなかった。恋人とのBreak-Upと未練、元恋人の他の男性との結婚(しかも相手は金持ちだ!)、元恋人との間の子供への口に出来ない情愛など、Ex-Wife、Ex-Husbandだらけの今日のアメリカ人が共感できる人生の試練がスーパーマンに設定されている。今回の映画が人気を博している理由はここにあるかもしれない。

実際、私の心を揺さぶったのもこの点だ。ラストシーンで復活したスーパーマンは、ロイスの邸宅を密かに訪れ、2階の部屋で寝ている息子に語りかける。

"My son・・・・" しかし、彼は自分が実の父であると名のることは出来ない。ロイス、リチャード、息子の幸福な家庭を壊すことになるからだ。寝ている息子に、「でも、いつでも私は見守っているよ。片時も忘れずに…」と静かに語りかけるスーパーマンのコミットメントが心を揺さぶる。やがて、幼い息子も成長し、自分の秘められた力に覚醒する時が来るかもしれない。その時、自分の本当の父を知るだろう。

以上





1 事故の原因:悪の科学者レクスは北極圏にあるスーパーマンがクリプトンのクリスタルで築いた基地に侵入し、クリスタルを盗んで、その力を実験する。この時、クリスタルが放つ強力な影響力のためにメトロポリス全域が停電となり、上空を飛んでいたシャトルと旅客機も短時間停電する。事故はその影響で起こった。