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![]() ![]() 『明治・大正の経済界昔話(1)』 - 先物取引は世界の誇る日本の発明 -
在米日本国大使館
10年ほど前、野口悠紀雄の『1940年体制』という本が話題になった。戦後の経済発展は、1940年代に形成された税制、金融、労使関係面等における統制経済体制を起源としており、それが近年まで続いてきたとするものである。石井 裕晶 1940年を断層とすべきか議論はあろうが、筆者の解釈によれば、著者の思いは、成熟した日本経済が、今後さらなる発展を図っていくためには、『1940年体制』という時代遅れの制度や結果平等型の社会システムを変革し、いわば『普通の経済』に戻るべきである、という点にあったかと思う。 最近は、敵対的買収を含めた企業のM&Aの活発化、企業統治の強化、官から民主導の経済への意識改革など、経済のグローバル化が進む中で、好むと好まざると、我が国経済も『普通の経済』に進んできているように思える。 しかし、ここでいう『普通の経済』はどのようなイメージであろうか。いわば世上にいうアメリカ型の経済になることか?仮にそうだとして、「金儲け万能主義」「弱肉強食」のやり方が日本の社会風土に馴染むのか?訴訟中心、ロビイストやリボルビングドア等により特定の利益団体の声が議会を通じて直接反映されやすいシステムが、日本のような社会によい結果をもたらすのか? このような疑問を前にすると、『1940年以前』に、我が国では、実は現在でも驚くべきほど自由な経済活動や財界活動が行われていた経験があることを思い出すべきだと思う。しかし、そのような歴史的事実は、残念ながら殆ど光が当てられてこなかった。 先般、この誌上で『民間経済外交の一断面』と題して、数回にわたり戦前の財界の経済外交の姿をご紹介した。続いて、明治から大正時代の実業界に起こった逸話をいくつか御紹介しながら、かつて我が国が経験した『普通の経済』の姿をご紹介したい。 初めに今回は、株式による資金調達による直接金融が主流であった時代の証券取引所を巡るエピソードを御紹介したい。 先物取引の発祥 我が国における取引所は、1730年に、大岡越前守が「天下の台所」と呼ばれた大阪の堂島の米会所を公認し、正米取引と呼ばれた米切手(米の現物支給を約束する手形)による取引だけではなく、帳合米取引(物件代金の授受を行わず帳面の上で差金決済を行うもの)と呼ばれる純然たる投機取引を認めたことに始まった。 この帳合取引は、将来の一定期日に差金決済を行うことのできるものであり、世界中のCorporate Financeの教科書においても、この帳合取引は世界の中でも最も先駆的な先物取引(デリバテイブ)の形態であったと評価されている。 このように日本において先物取引が発達したのは、幕府をはじめ大名は、租税を米によって徴収し、これを絶えず換金したり、将来入荷する米を担保に借入れたりする必要性に迫られている一方、米を購入して貨幣を支払う商人は、米の出来、不出来による米の価格変動リスクをヘッジすることを望み、米市場が両者のニーズを結びつける機能を果たしたからである。 それだけではない。江戸時代における武士や商人たちの「武士道」や「商人道」においては、何よりも「信用」を尊ぶ伝統があり、難しい契約書がなくとも、契約を誠実かつ確実に履行するという強い価値観が存在したことを見過ごしてはならないだろう。 ちなみに、欧米において発達した契約社会を除き、日本のように「約束を守る」ことを尊ぶ伝統文化を持っている国は他にあるだろうか。世界のほとんどの社会では、文化的、宗教的や政治的な背景から、約束を守らなくても日本人ほど目くじらを立てないのではないか。 近代社会において、我が国が急速な発展を遂げた基礎には、このような「契約は守る。」「言い訳は恥とする。」という強い価値観が存在したことがある。これは、バランスシートには計上されていない目に見えない国力(Invisible Asset)の一部をなしてきたと言ってもよいと思う。 さて、江戸時代に発達した先物取引も、将来の市場価格の変化を予想して行う投機とは表裏一体であり、先物市場が発達するにつけ、投機も活発化し、幕府は、米相場会所を「賭博場」とみなして、たびたび規制を行った。 株式取引所の設立 明治時代になり、公債や株式などの有価証券が多額に発行されるようになると、このための取引所が必要になり、1878年(明治11年)に、政府は「株式取引所条例」を制定し、3ヶ月限月の定期取引、株式会社組織による取引所の設立を認めた。この条例を受けて、同年、東京株式取引所(現在の東京証券取引所の前身)が、株式会社として発足した。 先物取引は、現在では、世界の商品、株式、債券、為替などの市場においてリスクヘッジの一般的な手段となっているが、その当時、海外においてはほとんど例がなく、明治初期に日本に滞在した外国人は「日本の誇りとするところは、皇室と富士山、ほかにただ一つの発明である限月制度がある。」と感動したと伝えられる。 一方、1882年(明治15年)の元老院の議事録を見ると、必ずしも投機の果たす経済的役割についての正しい理解はなく「取引所は白昼公開の賭博場である。日本の勤労の美風を損なう。」「取引所は娼妓と同じように本来禁止であるが、禁止しきれないので一定の枠組みのなかで厳重に監視して許可をすべきである。」と議論され、政府においては、「投機は悪である。」という観念を根強く持っていたことが判る。 明治19年、設立されたばかりの東京株式取引所においては、経営権をめぐる対立が起こり、公債価格の暴騰によって得られた売却益を積立金として内部留保にするべきと主張する株主と、割賦によって株主に配当するべきであるとする株主が対立し、後者の立場の株主が東京株式取引所の株式の過半数を買い占めた上で、臨時総会を請求した結果、現役役員が解任され、配当が引き上げられた。その後も経営権をめぐり敵対的買収が起こっている。 戦前は、戦後と比較にならないほど活発なM&Aが行われていた。しかも資本市場の中核を担う取引所であっても例外ではなく、敵対的な買収が実施されていたことは興味深い。敵対的買収は、決してアメリカだけの風習ではない。 「取引所法」の制定 取引所外の取引の拡大や不正事件が起こり、政府は、1887年(明治20年)に、取引所の形態は、欧米にあるような会員組織(フランス語でブールスBourse)とすべきとする「ブールス条例」を制定した。 しかし、この条例の施行により、既存の取引所は、営業期満期になると業務を行えないだけではなく、政府の方針は、現物がなければ取引ができず、限月取引(先物取引)を全く許さない方針であることが明らかになったため、既存の取引所関係者は新法に対して反対運動が起こし、条例は事実上撤回された。 この失敗を受けて、政府は、先物市場と株式会社形態を二本柱とする我が国の取引所の伝統を追認する方針に変わり、1892年(明治25年)に、会員制組織の取引所と株式組織の取引所の双方を認める「取引所法」を制定した。これが戦前の取引所を規定する基本法となった。 当時、東京株式取引所は、政府との議論に対応するため、調査団を欧米に派遣している。その報告として「我が国と欧米を比較すると、ほとんどの事業は欧米の方が進んでいるが、詳細に見ると取引所に関してはほとんど同じであり、むしろ二百年以上の長い間研究を重ねてきた我が国の取引所の方が進んでいる。先物取引も株式会社形態の取引所も、我が国が誇るべきものであり、問題はない。」、「学ぶべき点は、欧米諸国では、学者や実務家が取引所の複雑な機能について深く研究していることである。我が国では学識のあるものが深く事実を研究せず、皮相な観察や事実を知らずに議論している。我が国は、取引所について、経済学上の学科として講義するべきである」などと報告している。 現代においても、我が国では、株式や為替などのリスクなどを科学的に研究する金融理論や金融工学の発達が米国に比べて遅れており、実学を教えるビジネススクールの伝統も乏しく、実務家は理論を軽視し、逆に学者は理論に傾注して、両者の連携が乏しいといわれる。このような日米の文化の差は、当時と本質的に大きく変わっていないようだ。 ロビー活動による先物規制の撤回 取引所法の制定以降、取引所数も増大し、日清戦争後の好況により、投機熱が煽られたことを見て、政府は再び取引所の規制強化を狙った。 1901年(明治34年)、政府は突然の勅令を出し、取引所の最低資本金額の引き上げ、限月(先物取引の決済期間)を3ヶ月から2ヶ月に短縮する方針を実施した。政府は、限月を短縮することによって株式取引所の投機性を除去できると考えたからである。財界の重鎮の高橋是清(当時日本銀行副総裁)や渋沢栄一(第一銀行頭取)も当初このような方針を支持していた。 しかも、政府は、それまでの失敗の経験から、取引所側の反対を恐れて、議会での議論を避けるため、「勅令」という行政命令を一方的に出して正面突破しようと考えたのであった。 しかし、大きな制度改革を、法律を改正することもなく、取引所法の制定当時のように、商工会議所などを通じて民間の意見も聞かず、また、施行までの猶予期間も十分に与えることもなく勅令を施行したことに反発は広がった。 この晴天の霹靂の「取引所撲滅令」により、株式市場は恐慌状態になった。勅令実施以降、指標銘柄であった東京株式取引所株は、201円から、二月で半額へと下落した上、株式の取扱高全体が激減し、金融不安も懸念されるようになった。 このため各地の取引所は連携して、全国取引所同盟連合会を結成し、桂太郎首相と平田農商務大臣に勅令の撤回を陳情したが、聞き入れられなかった。 そこで、取引所側は、商工会議所、銀行協会などの経済団体や国会議員に対して、猛烈なロビー活動をして、限月の復旧を訴えた。 金融市場の混乱と、取引所からのロビーにより、漸く銀行界も限月短縮に反対に回り、高橋是清や渋沢栄一も限月の復旧に反対しない立場に回った。 世論の強い反対を受け、遂に政府は限月復旧を決断し、事態の早期収拾を狙った。しかし、勅令を改めるのは朝礼暮改となるので、「省令」によって事実上、延取引の制度を改めるという対応をとった。そして、このような事態の混乱を招いた責任をとって、主務省の木内農商務次官が辞職した。 さらに、衆議院において、「限月短縮の勅令を事実上省令によって改変したのは、政府の命令権の濫用であり、違憲違法である。」との批判が起こり、与党もこれに賛同した結果、不信任案は、満場一致で衆議院を通過した。そして、平田東助農商務大臣もこの責任をとって辞職した。 平田を継いだ清浦圭吾は、勅令を改正し定期取引の限月については従来どおり3ヶ月に復旧した。 当時の政府が、このような規制の導入や変更に際して、当事者との調整を行わず、一方的に勅令を発出したことは、決して民主的であったとはいえない。 しかし、取引所は業界として連合して、商工会議所、銀行業界との連携、国会への根回し、プレスを通じた世論への訴えなどを通じて、規制を撤回させた。 このように、この時代の経済界が、現代の「ワシントン的な」ロビイングを実施して効果を挙げていたことは注目すべきだろう。明治憲法下でも行政の権力の濫用を牽制するだけの民主的なメカニズムは十分働いていた証左でもある。 政府はブールス条例と取引所撲滅令と2回にわたって投機的取引の規制を行おうとしたがいずれも失敗した。こうして「取引所問題は何時も政府の鬼門であるという風に見られる」に至った。 日銀特融による市場の救済 1916年(大正5年)、第一次世界大戦の最中にドイツが講和条約を提起したことにより、戦時景気に活況を呈していた日本経済の先行きに対する不安が広がり、株価が大暴落し、特に戦争関係の株はほとんど相場が立たない状況となった。 市場の危機に対して、東京株式取引所は、相場のてこ入れのため、日本銀行に対して1500万円の融資を要請した。日本銀行は、取引所と財界の強い要請により、日本興業銀行を通じて、東京株式取引所には1500万円、大阪株式取引所には1000万円の救済資金を融資した。 この「日銀特融」を小池国三(後の山一證券の設立者)をはじめ有力仲買人4名がシンジケートを組織して受け入れ、受渡不能となった当限買玉を引受け、先限で買い付け、受渡し期限の延長を図り、株式市況の回復に成功した。この融資は、その後的確に返済された。 これが、我が国における、いわゆる「PKO」の走りである。 『1940年体制』の取引所 その後、政府は再び限月短縮を狙った。投機に対応するため、1923年の取引所改正では、再び会員組織に改変することを目標にして、株式会社組織による株式取引所の強制担保制度を相対任意の担保制度に変え、また、長期清算取引の限月を、3ヶ月から2ヶ月に短縮した。しかし、限月を短縮した結果、長期清算取引が衰微し、全国の取引所が再び激しい限月復旧運動を起こし、元通り3ヶ月に復帰した。 しかし、このように自由に発達してきた取引所も、太平洋戦争勃発とともに、戦時体制に組み入れられた。 1943年、日本証券取引所法により日本証券取引所が設立された。4分の1を政府が出資する特殊出資法人となり、全国11の株式取引所はこれに統合された。長期清算取引は東京と大阪だけに認められたが、市場は実物取引を中心としたものとなり、経営も政府の統制に服することになった。 先物取引を中心とし、株式会社形態によって運営されてきた株式市場も、戦時経済統制強化の中で、その歴史にほぼ幕を閉じた。 主務官庁は、1925年、農商務省が商工省と農林省に分かれたことにより、商工省所管となったが、1941年に金融統制の観点から大蔵省所管となった。 戦後になると、GHQが、日本証券取引所の再開を禁止したため、個別の証券業者による集団的な店頭取引が始まった。そして、GHQの禁止解除とともに、1948年には証券取引法が制定され、1949年には東京、大阪、名古屋に証券取引所が新設され、取引が再開した。そして、アメリカの証券取引法を基にした証券取引法が制定されたが、取引所は会員制とし、先物取引も認められなかった。 先物取引と株式会社の復活 1982年にアメリカで株価指数先物取引が開始されると、我が国においても1991年に株価指数に基づく株式の先物取引が復活した。戦前には我が国の株式取引の中心であった先物取引を逆にアメリカから輸入することになった。 アメリカの取引所は、一貫して会員制により運営され、歴史的に株式会社制度による経営の経験はなかったが、市場への対応と経営的基礎の充実の観点等から、1999年、ニューヨーク株式取引所が株式会社化を決定した。 続いて、我が国でもその翌年、大阪証券取引所が、2001年には東京証券取引所が会員制から株式会社制度に移行した。 江戸時代以来の英知により、既に我が国には根付いていた制度が、いずれもアメリカで新たに開発され、改めて我が国が輸入することになった。 結果として、戦前から我が国の誇りとしてきた先物取引と、株式会社組織による運営は、市場の自由化とグローバル化の中で約六十年ぶりに現代に復活することになった。 (つづく) |