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![]() ![]() 『ベイルートと朝日・鈴木記者』
読売新聞ワシントン支局長 寺田正臣
手元に「ジャーナリスト 鈴木敏の仕事」と題した本がある。朝日新聞記者だった鈴木氏が94年に48歳で病死するまでの記者活動の記録である。夫人の鈴木百合子さんが編纂し96年に自費出版した。鈴木さんは週刊朝日の記者を長く務めた後、83年から84年にかけて特派員としてレバノンの首都ベイルートに駐在した。私のベイルート在任時とほぼ重なる。この本の存在を知ったのはワシントンに赴任した直後の2004年1月だった。朝日新聞の西村前ワシントン支局長が「こんな本がありますよ。私は鈴木さんとは面識がないけれども、彼のことは聞いています」と言って手渡してくれた。ベイルート時代、地方での駆け出し記者時代、週刊朝日時代の数々の記事と闘病記、そして百合子夫人と鈴木さんとの出会いから永遠の別れまでをたんたんと綴っている。表紙を飾る、ひげ面と人なつこい眼差しの鈴木さんの写真が印象的だ。 イスラエルと、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラとの間でこの夏に大規模な軍事作戦が展開された。テレビが伝える戦火のベイルートは、20数年前の記憶を否応なく刺激する。写真のように鮮明に覚えている場面があるかと思えば、記憶が曖昧だったり、抜け落ちている部分もある。新聞やテレビが報じるレバノンの最新情報に接しながら私は無意識にこの本を手にしていた。遠い日のことを再確認する作業のようでもあった。 83年10月23日。夜が明けて間もない時刻に支局の助手の電話で起こされた。「ボス、たいへんだ。マリーン(米海兵隊)がやられた」。ほどなくして鈴木さんから電話があった。「大規模な爆発らしいね。読売支局の近くを通るから車で拾っていきますよ」。当時、日本のマスコミでベイルートに記者を駐在させていたのは朝日、共同通信、時事通信、読売の4社だ。各社1人ずつでいずれも自宅が支局を兼ねていた。我々が住んでいた西ベイルートの中心部からベイルート国際空港近くの米海兵隊本部まで車で約30分。鈴木さんと現場に着くと、横に細長い4階建ての本部ビルはつぶれて瓦礫の山と化し、白い煙がもうもうと立ちこめていた。とてつもない威力の爆発があったというのは実感できたのだが、瓦礫の下に300人ほどの米海兵隊員、米海軍兵士が埋もれていたというのはこの時点では想像もできなかった。大々的な救出作戦はまだ始まっていなかった。現場に着くのが早すぎて、近くの海兵隊員に取材してもだれも答えられない。何が起きたか全体がわからない状況だった。のちに、海兵隊員250人近くが死亡したこと、1d近くの爆薬を積んだトラックが本部の正門を突き破りビルに突入した自爆テロであったこと、第2次大戦後、米海兵隊が受けた一回の攻撃としては最大のものであったこと、犯行はヒズボラの一員によるものであったことーなどが判明し、米国にとっては屈辱の歴史を刻んだ日となった。その日は真っ青に晴れ渡ったさわやかな日曜日だった。ベイルート沖の地中海に停泊している米艦隊からは犠牲者の救出、運搬にあたるヘリコプターが次々に飛んで来る。秋空に無数に舞うトンボの群れに見えた。突き抜けるような青空の下では、怒号や叫び声、ヘリの騒音の中で遺体や負傷者が運び出され凄惨な光景が繰り広げられていた。 鈴木さんは赴任して1か月で、私は3週間。37歳と31歳でともに初めての海外駐在だった。我々は着任早々、行く手を暗示するように戦場の強烈な「洗礼」を受けることになった。 ベイルートはその温暖な気候と洗練された町並み、料理の豊かさなどからかつて「中東のパリ」と言われ、60年代から70年代初めにかけては多くの日本企業が進出、1000人を超える邦人が住んでいた時期もある。75年にキリスト教マロン派、イスラム教スンニ派、シーア派、ドルーズ派などが入り乱れた本格的な内戦に突入して以来、シリア軍のレバノン駐留、アラファト議長(当時)率いるパレスチナ解放機構(PLO)のレバノンでの影響力拡大など様々な要素がからみ政治状勢は極めて複雑な様相を呈していた。82年にはイスラエルがレバノンに侵攻、ベイルートまで攻め上がった後、南部レバノンに居座った。 我々が赴任したのは内戦が最悪の状態に入ろうとしていた頃で、邦人は大使館、プレス関係者など合わせて20人前後に激減していた。日本企業は中堅商社1社が2人の駐在員を置いていた。「こんなに危ない場所なのに本社が帰って来いと言わんのですよ」と駐在員がいつもぼやいていたのを覚えている。レバノン内戦は各宗派間の戦闘、米海兵隊本部爆破事件のような多国籍軍への攻撃、シーア派と南部レバノンのイスラエル軍との戦闘―と多重構造になっていた。 戦闘が起きるとベイルート近郊の変電所が必ず攻撃を受ける。だからベイルート市内はいつも電力不足で、一日に5−6時間ほどしか電気が来ない日が多かった。国際電話回線がまともにつながらないため東京への連絡、記事送稿はすべてテレックス頼りだ。どんなに戦況が悪くなってもテレックス回線だけは生きていた。東京とベイルートをつなぐ唯一のライフラインがこのテレックス回線だから何としても1日24時間の間、電気を確保しなければならない。そこで活躍したのが自家発電機だ。特派員の最初の仕事は性能の良い自家発電機(日本製だったと思う)を手に入れることから始まった。電気はほとんど日中しか来ないから夜はベイルート全体が闇の世界に入る。このため各家庭ではたそがれ時から一斉に自家発電機を始動させることになる。ヒモを「えいやっ」と引っ張ってとモーターを回転させる。「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ」という始動時の音がベイルートの空一杯に響き渡る様は一種異様なものであった。 民兵同士の市街戦でよく使われたのが迫撃砲だ。この着弾音と、路上の乗用車などに仕掛けられた時限爆弾の爆発音がともに「ズズーン」という猛烈な響きで、最初のうちは区別がつかなかった。遠くから飛んでくる砲弾が空中でマッハを超える時の破裂音も同様の音で混乱に拍車をかけた。ベイルート沖合に停泊中の米戦艦「ニュージャージー」が山間部のイスラム・ゲリラ陣地に向けて発射する巨大な16?砲がベイルート市上空を通過する際にはこの破裂音が響き渡る。取材で撮影した写真を電送するために鈴木さんも私もよくAP通信のベイルート支局を訪れた。ある時、「ズズーン」という爆発音が身近で響き身を隠すと海兵隊上がりのテりー・アンダーソン支局長(85年にヒズボラに誘拐され約6年間にわたって人質生活を送った)が「大丈夫。ニュージャージーがぶっ放したやつだよ」と笑いながら教えてくれた。我々は、毎日のように迫撃弾と車爆弾、マッハ超の破裂音に敏感に反応することになった。たまに悪天候で落雷があったりすると「いまのはどっちだ?」と頭が混乱することになる。落雷の音もまた爆破音によく似ているのだ。 84年2月6日はおそらくは鈴木さん夫妻(他社は単身赴任だったが鈴木さんは夫人を帯同していた)にとっても私にとっても忘れられない日となった。朝日と共同通信の支局は同じビルにあった。私は昼前に所用で共同支局を訪れていた。先ほどまで車や人の往来があった市街地は昼過ぎにはあっという間にゴーストタウンのように静まりかえった。地元ラジオがキリスト教徒とイスラム教徒民兵の大規模な戦闘が始まると伝えたために市民は一斉に自宅地下壕などに避難した。間もなく戦闘が本格化し、まずいことに朝日・共同が入っているビルが民兵の拠点になったとみえて、盛んに迫撃砲がこのビルめがけて撃ち込まれた。共同支局前に迫撃砲が着弾して爆発、破片が窓を突き破り壁に無数の穴をつくった。支局内に足止めを食った私の頭上15aほどの所に破片が飛来し目の前の壁には直径10aほどの穴がぽっかりと口をあけた。戦闘は夜中まで続き、ビルの一角からは火の手が上がった。我々は地下壕に避難した。「まずいですね」。泰然として常に平静を保っていた鈴木さんもさすがにこの時は動揺しているように見えた。私もそうだった。沈黙の時間が長く、それぞれにある程度の「覚悟」があったように思う。 明け方を過ぎた頃に戦闘が止んだ。6日の大市街戦では日本大使館にもロケット弾が撃ち込まれた。7日に大使館に行くと大使執務室は焼夷弾が見舞ったように完全に破壊されていた。本棚の分厚い本が立ったまま灰と化していた。すさまじい火力の威力を見せつけていた。 この事件を機に邦人は大使館も含めて国外に退去し、プレス各社も移動特派員となったりキプロス島のニコシアに臨時支局を置いたりしてベイルート常駐態勢を止めることになる。私はこの年の10月に、鈴木さんは翌年の秋に帰国した。 90年前後だったと思うが、私がニューヨークに駐在していた時に出張でニューヨーク入りした鈴木さんから電話があった。東京で会って以来、3,4年ぶりだったと思う。「元気?今回は時間がないので電話だけで失礼しますよ」と鈴木さん。当時、鈴木さんが朝日の次期ニューヨーク支局長で赴任するという噂が流れていたので、この話をぶつけると鈴木さんは「あはは、それはどうかなあ」と豪快に笑って受け流した。これが鈴木さんとの最後の会話となった。鈴木さんは91年暮れに病を得て闘病生活に入り、94年5月に亡くなった。私が訃報に接したのは出張先のマレーシアの首都クアラルンプールでだった。朝日新聞衛星版の社会面の死亡欄で鈴木さんの名前を見つけた。 百合子夫人は本の中で「夫と私が一緒に拾い上げた時間は、実現されたことによって永遠に残る」と書いている。ベイルートは危険な場所であることが最初からわかっているから単身が“常識”なのだが、鈴木さんは夫妻で赴任した。二人で体験を共有した。夫妻は後に、ニューヨークタイムズ紙の外交コラムニスト、トーマス・フリードマン氏の著書「ベイルートからエルサレムへ」を共訳し出版した。鈴木さんが病床にある間に翻訳作業が続いたと聞いている。 鈴木さんととともに現場に立った米海兵隊本部爆破事件はその年の4月に起きた米大使館爆破事件とともに、イスラム過激派が大規模な自爆テロで米施設を攻撃した最初のケースとなった。1983年は対米テロ元年と言っていいかもしれない。当時はトラックやバンに爆薬を積んで突撃する例が多かったからその手の車両に警戒しろと言われたが、いまはそれが航空機になった。だが、イスラム過激派が米国やその同盟国に自爆テロを仕掛けるという憎悪の構図は基本的に変わっていない。鈴木さんが現状を見れば「なんだ。相変わらずだね。アメリカは何をしてきたんだろうね」と慨嘆するような気がする。 |