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![]() ![]() 『〇〇年目の雑感』
Akin Gump Strauss Hauer & Feld? LLP
米国のホームドラマ「パパは何でも知っている」 の母親役のJaneWyattさんが最近亡くなったことをニュースで知りました。96歳と聞いて驚きました。私が駐在員の娘としてニューヨークにいた頃この番組を見ていましたので、そんなに昔のことだったのだと、まったく年齢の自覚のない私には改めて月日の経っていることを知らされる出来事でした。堀籠 春子 日本でもこの番組は放映されたと聞いていますが、あの時代の平凡なアメリカの家庭が描かれていたと思います。出演者が殆ど白人だったことに対して何の疑問も持たず、“politically correct”などの単語は聞かれなかったようです。同じように、当然子供達は過分に保護され、学校でも家庭でもとても楽しいアメリカの生活を送り、今でも大変良い思い出として私の心に残っています。アメリカ人の家庭に行けば、母親は必ずおやつを作って待っていてくれて、みんな英語の分からない私たちにとても親切に接してくれました。親切すぎる場合もあって、父などはヘキエキしたこともあったようです。今では笑い話となっていますが、当時ガーデンアパートの2階に住んでいた折、毎晩夜遅く帰宅する父を観察していた下の階に住んでいたお婆さんがある日中、突然、離婚するなら私が証人になってあげるから、と母に言って来たことがあるとずっと後になって聞きました。文化の違いもありますが、当時、仕事上の日本とのやりとりは時差の関係や通信の不便さもあって深夜にも及ぶことが多かったのだそうですが、そんなことはお婆さんには理解されませんでした。 もちろん当時は日本人の数も少なく、近所には私の家族以外にもう一家族しかいませんでした。そのような環境の中で6ヶ月も経つと、親との会話が徐々に英語になり、親の日本語は理解できても、自分の日本語が覚束なくなりました。意識の上ではアメリカ人と何の隔たりも感じなくなっていたようです。その頃に叔父が出張でニューヨークに来た時の観察です。今とは違って日本とアメリカの行き来は簡単に出来ない時代でしたので(5年の滞在中、ホームリーブもなければ、父の日本への出張もありませんでした)、叔父は私たちの成長はもちろんのことですが、会話がスムースに出来なかったことに驚き、いずれ日本に帰る時のことを心配したそうです。その5年間の間、子供として日本のニュースに触れることもなく、唯一記憶していることと言えば、今上天皇のご成婚がアメリカのテレビで放映されたことくらいです。もちろん日本車など殆どなく、Big Threeの天下でした。アメリカにとってはとても良い時代だったと思います。(アメリカと言っても私の記憶にあるのは、とても狭い東部のしかもニューヨークの郊外のことです)。 5年経って東京へ戻った時、帰国子女の受け入れ学校は公立しかなく、日本語をまったく忘れてしまった(理解できない)私は毎日、お教室の後ろでひらがなの練習をしていました。幸いにも当時の担任の先生が私を勉強の出来る生徒の隣に座らせて下さったので、少しずつ勉強のコツを教わり、それと引き換えに英語の発音を教えて上げることが出来ました。今で言う“いじめ”にもあいましたが、昨今の陰湿な“いじめ”と違っていたように思います。そのうちに英語やアメリカのことに興味のある人が集まって仲間が出来ました。当時の先生に感謝しつつ、今でも彼らと連絡を取っています。 1964年の東京オリンピックを期に日本も随分と近代化が進み、少しづつ世界的にも認められるようになってきました。何とか日本の習慣や勉強に慣れた頃、再び父はニューヨークに転勤です。最初の滞在の時から随分と時間が経っており、“made in Japan”といえば安物、日本人は”honorary white”というあからさまな差別の時代も過ぎていました。この時、私は高校3年生になっていました。女の子だったからでしょうか、受験のために一人日本に残すなど親は考えもしなかったようです。2度目の滞在中は英語に苦労せず、アメリカのハイスクール3年にすんなり編入することが出来ました。こちらの大学受験は高校2年の時から全国試験(SAT)を受けることや、生徒会や部活など課外活動も成績と一緒に加味されるので、高校3年からの編入は大学進学には不利です。しかし試験をパスしただけで(成績はどうであれ)何処の大学に進学しようと市民権のない学生にも多少の奨学金を提供してくれたアメリカは寛大でした。 子供として過ごしたアメリカ生活は良い思い出として残っていますが、父は駐在中色々と屈辱的な、嫌な目に会ったことを大人になってから聞きました。私が大人としてワシントンに住むようになっても、父はアメリカには行きたくないと、一度も訪ねて来ませんでした。あの時代の方々は私たちには想像も出来ないご苦労をされたのだと感じます。 省みて、申すまでもなく、現在のアメリカは当時のアメリカと人種の構成(fabric)、意識、立場など全然違います。当然大人になった私の見方も違っていますが、アメリカ人自体に余裕がなくなっているようにも見受けられます。もっとも、全体的にアメリカ人とかアメリカと一口に申しておりますが、南部や中西部のアメリカのことはあまり知りません。本質的に何が違うのかまだよく理解しておりませんが、アメリカだけの変化ではないのかもしれません。 こうした変化の背景にあるのは、女性が社会に本確的に進出していることで家庭の構成が少しずつ変化してきていることや、生活環境が変わってきて夫婦の収入がないと生活水準が保てないといったことなどが全体的に大きな影響を与えているのかもしれません。物が氾濫している現状、お金がすべてとは言いませんが、権力や財力を“これでもか”と見せびらかすようなPotomacやMcleanの大きな家を見るにつけ、アメリカ生活が長く少しはアメリカ人を理解しているつもりの私でもなかなかこの心理の理解に苦しみます。しかし、このスケールのすごさや、懐の深さ、アメリカンドリームを何処までも追う陽気なアメリカ人気質あってこそ色々な新しい発想ができるのかもしれません。 どのような形でも常に自己表現(主張)の出来る教育をするアメリカでした。それをしないとおいていかれるアメリカもありました。その教育をそのまま日本に持って帰るとうまく行きませんでした。が、昨今は瞬時に世界中のどこでも何でも知ることができ、殆ど何処へでも行ける世の中になりました。コンピューターや携帯電話で何時でもどこでも連絡が取れる便利な時代になりました。何でもアクセスできるようになった半面、ストレスや国籍不明の人々が増えて来たように感じませんか? 世界が狭くなり、経済はボーダレスになってもそれぞれの文化は独自性を保持しているのだと、海外生活が長い私は特にそう感じます。 “パパは何でも知っている”の世界が良いのか、それとも今が良いのかという問題ではないと思います。どこかでよいバランスが取れないものか、今日も電子メールに追われながら新しい一日が始まりました。 |