『明治・大正の経済界昔話(2)』
- 誰が株主の利益を守るのか? -


在米日本国大使館
石井 裕晶

「経営者は株主の雇い人という関係がある。その株主を代表して働くようなものであるから重役は、わがままにならないようにして、小心翼翼、人の大切なものを託されているという考えをもたなければならない。」(第二代東京商工会議所会頭、東京株式取引所理事長中野武営の言(明治40年代))

今回は、明治41年に発覚した帝国商業銀行の不良債権問題への対応と、大正6年、第一次大戦による大戦景気で巨額の利益を上げた日本郵船株式会社の利益配分などを巡る経営と株主の争いを見ながら、当時の株式会社の、株主と経営をめぐる関係について紹介してみたい。

帝国商業銀行の破綻と監査役の役割

帝国商業銀行は、明治27年に設立された銀行で、主として取引所と株主の仲買人への金融を業務とした、兜町の機関銀行のようなものとして発展したものであった。銀行は当時の一流銀行として順調に発展していたが、明治40年末の株式暴落により多大の不良債権を作ってしまった。

この責任をとって、明治41年2月の臨時株主総会で、役員が全員退任し、取締役会会長に郷誠之助が推薦され、選任された。

郷は、この後に、東京株式取引所理事長、東京商工会議所会頭、日本経済連盟会会長、日本工業倶楽部専務理事、全国産業団体連合会会長を兼ね、昭和になってからの財界を代表する指導者となる人物である。

帝国商業銀行は、当時を代表する銀行の一つであり、破綻すれば経済全体への影響も大きいと考えられ、財界の有力者も再建問題に積極的に関与した。

大株主が中心になって再建案を審議したが、監査役の責任問題が起こり、議論が紛糾した。銀行の経理状況の悪化が突然発表され、株主が不測の損害を受けたということで、監査役の責任問題が追求された。

数期にわたり欠損があるにもかかわらず、0.6%の配当をしていた。もし、誠意ある監査をしていれば欠損には至らなかったはずだ、との非難が起こった。

根津嘉一郎(東武鉄道社長、武蔵学園創立者)が整理委員会の委員長として調査結果を報告し、その案をベースに再建計画の基本ラインが合意された。一部の株主には減資や無配にすることに反対するものもおり、紆余曲折の経緯があったたが、財界の大物も株主の調整に尽力し、半年かけて、最終的に1年後に最終的に2分の1の減資を柱とする再建計画が株主総会で採択され、銀行の再建を果たした。

当時の『讀賣新聞』の論説では、次のとおり監査役の機能を強化することが必要であると主張している。

  1. 監査役は取締役の営業振りを検査して摘発する憎まれ役であるので、その機能を強化するためには、監査役の給与を高くすることが必要である。
  2. 監査役は、大株主から選定されることが多いが、大株主は実業界に名が知れているものが多いので他の取締役と私情を通じていることも多く、また、会社の不祥事が明るみに出ると会社の信用を失墜させることを考慮して断固とした処置をしにくい。このため、監査役の半数は小株主が当たるべき。
  3. 監査役の重任を排して取締役との馴れ合いを排するべきである。
  4. 株主が監査役の失態に対して遠慮なく制裁を加えられるようにするべき。
  5. 公設の監査役を設けることである。英国はこれによって成果が上がっているという。

我が国で公認会計士法が制定されたのは昭和23年である。監査役や公認会計士の制度については、現代においても株主や債権者の立場から十分な機能を果たしているか、依然として議論は絶えない。

日本郵船紛議 ― 株主からの増配要求と経営の対立

大正3年の夏、第1次世界大戦が発生し、我が国からの輸出の急増や商船の不足によって海運への需要が急増し、いわゆる「船成金」が輩出するなど、海運ブームが発生し、数多くの船会社が空前の利益を上げたため、郵船の株主も増配を期待した。

しかし、郵船株が、270円をつけると、郵船社長の近藤廉平社長が、「たとえ利益が増加しても配当は1割5分を越させない。増配しようとしても政府は命令で制限するだろう。200円以上の相場は高い。これ以上買い進むのは危険である。」と、人気に水を差す発言をしたため、日本郵船の株価は暴落した。

株主は、近藤の発言が「株主の議決権を無視し、株主の委託を受けて経営を行っている位置を忘れたものだ。」「株券時価が高いのは会社の信用を高めるのに社長が騰貴を抑制する発言をするのは不謹慎である。」「配当制限をするのが政府の意向であるなら不況の時は反対に配当を補償すべきである。」と一斉に批判した。

近藤社長は、政府補助を受け、欧州・北米・豪州の三大遠洋定期航路を開設したほか、近海航路を充実させ、同社を世界最大級の海運企業に成長させ、当時「社長さん」と言えば「近藤廉平」を指すといわれたほど、一斉を風靡した経営者であった。

そこで、株主である野村徳七(野村證券株式会社の創立者)他8名が、郵船の経営陣に対して「配当を1割5分に制限する。」との近藤社長の説明について質問状を提出するとともに、これら株主の一団が、「郵船株主有志会」を結成し、「船舶減価償却金、船舶保険積立金、修繕積立金があれば会社は安全、強固、堅実な基礎にあるので、その他の積立金は、株主に分配すべきである、あるいは、株主はこれを要求する権利があるとする。」という郵船革新意見を発表し、配当の増大を求めた。

会社は、このような株主の要請に素直に応じ、準備積立金以外は全ての積立金を廃し、株主の配当を1割5分から2割に増加し、残りは戦後の経営に備えるという名目で18百万円の利益を後期繰越金とした。

しかし、これだけで株主は満足せず、大阪の投資家の海老友次郎らが、大正6年2月、1400名、11万余株の委任状を集めて上京し、資本金を1億円まで増資すること、当期決算の際前期からの繰越金全部を株主に分配し、当期利益配当金を年4割以上とすることなどを会社に要求し、不可能であれば臨時総会を招集すると要求した。東京の織田昇次郎、大阪の井上徳三郎らの大株主も加わり、海老と同様の要求を行い、これら株主は合計25万株の委任状をとりつけた。

このような株主の主張に対して、会社側は、「日本郵船は、補助を国から受け、平時には命令航海を行い、有事の際は軍国の用務に服することになっている。戦時の異常な収益は、天佑である。会社が一時の盛況に酔って楽観に失することなく将来を考え永遠の大計を誤らないようにしなければならない。」と反論したが、株主は納得しなかった。

財界の元老の仲裁

新聞や雑誌の論調は、概ね株主の主張が行き過ぎであるとして、会社の主張に好意的であったが、社会的にも大きな事件となってきたのを見て、和田豊治(富士紡績社長をはじめ、多くの会社の役員などを歴任)が、渋沢栄一に仲裁に入るように求めた。

渋沢は、「郵船会社は、重役には才幹あふれた人物を網羅し、その経営法も当を得たものにもかかわらず、今回のように株主と重役の間に意思の間隔を生ずるに至ったのは、つまるところ、譜代の大名だけを寄せ集めて城郭を固め、一切外様の大名を近づけず、子飼いの人のみにて経営し、一般社会との接触交渉を絶って別天地を作り、その上、近来は、株主の中心にも動揺を生じた。今後の郵船会社は広く外様の大名も招いて実業界の勢力家を重役に入れ、一般社会との接触交渉を保ちつつ経営する必要があろう。」と述べ、仲裁に入ることにした。

こうして渋沢栄一と中野武営が東京の株主、土居通夫と片岡直輝(大阪商工会議所会頭)が大阪の株主との間で、それぞれ分担しながら本格的に調整に乗り出した。

3月4日、近藤社長ら経営陣は、渋沢栄一、中野武営、土居通夫、片岡直輝を訪問し、これら4人の仲裁者に対して、株主側が仲裁人に無条件に一任するのであれば会社としても無条件で一任するとした。

次いで、渋沢らは、増資要求株主側の織田昇次郎、南波禮吉、小布施新三郎、大縄久雄ら東京の株主、井上徳五郎、宮崎敬介、海老友次郎ら大阪の株主らと会見した。

このとき、中野武営は、「今回の調停仲裁は、条件付では御免である。無条件に一任するのであれば会社刷新の必要あれば刷新も行い、増資増配その他に関しても必要と認めるものはこれを決行させるつもりであるが、それを予め条件付である云々ということでは到底引受難い。」と述べ、あくまでも経営と株主双方からの無条件の一任を求めたので、当初、株主側はこれに抵抗したが、最終的に無条件に一任することを了解した。

このような厳しい交渉について、当事者が仲裁者に無条件で一任するということは、仲裁者に信用が厚かったこと、経済界にも武士道的な潔さが残っていたことを示しており、興味深い。

社外取締役の選任

経営者と株主の双方から無条件に一任をとりつけた後、渋沢、中野、土居、片岡ら財界四元老は、次のような仲裁の案を双方に提案したと伝えられている。

  • 会社の収益状態は、配当をさらに増加することは不可能ではないので、増加率は五月の定期総会に重役において適宜の案を作り提出すること
  • 資本増加並びに繰越金処分は会社重役において適当の時期に株主の意向を尊重して適宜の計画を立てること
  • 右二問題の解決その他一般経済界の接触を保つ取締役を増員すること

株主を納得させるため、配当や増資だけではなく、日本郵船の役員に社外取締役を増員することによる経営の刷新も含まれた。

日本郵船は、かつて渋沢栄一、荘田平五郎、豊川良平、中上川彦次郎など経済界の有力者が経営幹部に在任して、株主の信任も強かったが、概ね会社の使用人を抜擢登用した結果、社務の処理にはよいが、外部との接触では威信と徳望が不足する傾向にあるから、社外から新しい血を入れる必要があるという理由からであった。

当面、既存の役員を退任させるというのではなく、社外から新たな役員を入れて経営の監視を強めることによって対応することにした。

このような経緯から、4月の臨時株主総会において、取締役として、中野武営、和田豊治、郷誠之助、片岡直輝が、相談役として渋沢栄一と土居通夫が選任された。

当時としても、大物財界人が平取締役として会社に入ることは異例のことであったが、株主が納得する経営者を役員として入れて経営改善案を作成しなければ、株主に対して納得が得られる状況ではなかったからである。

こうして、新たに社外から選ばれた役員4名と旧役員9名で、当期決算案について協議を行い、「株主当期配当案では第一配当金は3割、戦時特別配当金は年4割の合計年7割の配当を為すこと」に決定した。

そし、5月の定時株主総会において、役員会で決定した配当案等が提出され、円満に議決された。

経営と株主の間の調停が円滑に決定されたのを見て、新たに取締役として会社に入った片岡、中野、郷、和田と、相談役であった渋沢と土居は、5月30日付けで辞任した。わずか一月余の在任でしかなかったが、社会の耳目を集めた問題を鮮やかに解決して会社を去った。

株主と経営をめぐる争いを、当時の財界の元老が中心になって解決したことは興味深い。財界のトップには独特の社会的信用があったことを示している。

株主によるコーポレートガバナンス

この日本郵船紛議を踏まえ、当時の『東洋経済新報』では、「専務は商事会社の枢軸であり、俊秀の士を業務経験をもつ使用人から抜擢するのはよいが、使用人との区別を明らかにさせてその技量を発揮させる必要がある。しかし、使用人は株主と外界に対して威信を欠いているばかりでなく、同僚が社長や副社長、専務など高い地位にあるのを見て、機会があればこれらに自分が代れると考えるので、例えば株主と専務が衝突した時なども、平取締役が専務を助けるのではなく、かえって足をすくうことが起こる。」として、日本郵船が行ったように、社長、副社長、専務は使用人から挙げ、平取締役は外部から入れることが最も理想的である、と論評している。

戦後の我が国の高度成長を支えた一つとして、大企業における終身雇用制や生え抜き役員主義、株式の持合などが挙げられる。従業員のモチベーションや会社への忠誠心を高めるとともに、長期的な視点から安定的な経営が可能になるからである。

一方、最近、日本においても社外や外国人の取締役を選任する動きや、様々な形でのM&Aが進み始めており、我が国にも欧米型の新たな株式会社のやり方が導入され始めたとして注目されている。

経済活動や株主のグローバル化が進む一方、優れた資源をもった我が国の企業の価値を一層発揮していく必要が求められている現代において、今後、どのような企業統治のモデルが求められるのか。現代の欧米の経営の姿だけではなく、時代背景は異なるが、株式を中心とする資本市場からの資金調達が中心であり、株主の意向を強く意識した経営が行われていた先人の経験も今に蘇ると思われる。

(つづく)


(注)本稿は筆者の個人としての見解であることをお断りします。