『初めての海外赴任 〜派遣教員 編〜』


ワシントン日本語学校 教頭 重富 哲也

ワシントンに赴任して4回目の冬を迎えようとしている。次の春が来る頃に、いよいよ帰国することになった。『13歳のハローワーク』ではないが、こちらに来てこれまで知らなかった様々な職種の方とお会いすることができた。しかし逆に、会話の中で私が派遣教員と分かると、派遣の経緯や補習授業校について尋ねられることが多かったように思う。

そこで、ここでは 私のこれまでの思い出や失敗談を織り交ぜながら、マイナーな派遣教員と補習授業校について少し書いてみたいと思う。

1.派遣決定から出国まで

【突然の派遣決定】

「即派遣が決まった。行き先は、アメリカのワシントン補習授業校(日本語学校)。どうする?」平成15年(2003)年1月下旬、夕食中に校長から電話をもらった。前年の9月に文部科学省の在外教育施設派遣教員選考試験を受けてはいたが、年が明けても合否の連絡が無かった為、4月からの派遣は無いだろうと妻と話していた。そんな矢先の出来事だけに驚いてしまった。この派遣には、試験を受けた翌年度に派遣される「即派遣者」と派遣候補者に登録され翌々年度に派遣される「登録者」の2種類がある。私の場合は即派遣、つまり約2ヶ月後の4月に赴任することになった。「もちろん、行きます。お願いします。」と言って電話を切った。

【内定者研修会での噂】

派遣決定の連絡を受けて1週間後、内定者研修会に参加するため筑波に向かった。この研修会では派遣者全員が集まり、1週間にわたって海外子女の現状と課題、赴任までの準備、赴任地の生活環境、治安状況など多岐に渡って研修を受けることになる。大半の者が海外生活は初めてとなるので、少しでも赴任への不安をかき消そうと、研修後も情報収集、情報交換のために他の派遣者との交流に余念がなかった。

他の派遣者と話をする中で必ず話題に上ることがあった。それは派遣先がどのような基準で決定されるかということだ。派遣教員は基本的に派遣先を希望できない為、派遣決定の連絡を受けるまで世界中のどこへ行くかは全く分からない。それだけに、どんな人物がどの国へ派遣されるのか、そして、派遣先決定の基準は何なのかが気になるのだ。私が派遣された平成15年度の派遣者は約460人、派遣国は約50カ国だったので、派遣先毎に派遣者の共通項を探すのは簡単ではなかった。しかし、すぐにある噂が流れはじめた。それは、がたいが大きく、厳つい顔をした者は危険地と呼ばれる国へ派遣されているのではないかというものだった。それを聞いたときは「まさか。そんな分かりやすい基準?」と半信半疑だったか、観察してみると確かに当てはまる場合が多かった。この噂、他年度の派遣者にも当てはまるのだろうか。一度調査してみたい。

【赴任準備とイラク攻撃】

赴任まで約2週間と迫った頃、アメリカによるイラク攻撃が始まった。アメリカの首都ワシントンでは化学兵器によるテロ対策として、窓に目張りをするためのガムテープやガスマスクがホームセンター等の量販店で売られ、しかも、品切れ状態だという情報が頻繁に報道されていた。アメリカ本土がテロの標的となり、今にも報復攻撃されんばかりの情報に、赴任を知った知人たちは「本当に行くのか。」と良く連絡をくれたものだ。しかし、私と妻はそのような心配よりも、当時、まだ小さかった息子たち(5、3、1歳)がいる中での赴任準備がはかどらず、刻一刻と迫ってくる出国日に怯えていた。平均睡眠時間は3時間という苦しい日々だったが、周囲の協力のお陰で引っ越しも完了し、成田へ。出発前日に長男が急性中耳炎になり切開するというハプニングがあったものの、予定通り無事に出国することになった。今考えると大袈裟すぎて笑ってしまうが、「生きて帰って来いよ。」「体を張ってでも家族だけは守れ。」まるで戦地へ赴く者へ向けられるかのような言葉を背に受け、日本を後にした。

2.補習授業校(日本語学校)での勤務

【1週間を1日で過ごす男】

転入してこられる保護者や初対面の方と話をしていると、「土曜日以外は、何のお仕事をされているのですか。」と質問されることがよくある。日本を発つときにも同僚から、「週1回土曜日だけの学校か。ラッキーだね。」「普段は何をするの。」と聞かれたものである。

在外教育施設には「日本人学校」と「補習授業校」があるが、補習授業校はあまり知られていない。私自身、補習授業校の存在は知ってはいたが、研修を受けるまでは補習授業校に通う子どもたちの置かれた状況や詳しい仕事内容など分からなかった。それを考えると、保護者が分かる筈もない。そこで、簡単に我々派遣教員の仕事内容について触れてみたい。

我々派遣教員は授業日以外は事務所で勤務している。学籍管理、各種学校行事の計画・立案、各学級の教材準備、児童生徒・保護者への配布物作成と印刷、各学級の教育課程の確認、現地採用教員への助言指導等、授業日に向けての準備に取り組んでいる。また、授業日である土曜日は、授業開始までに各校への配布物や教材・教具等の運搬、校舎の解錠、各教室・校舎内外の安全確認を行い、授業開始後は各学級の授業参観、校舎内外の安全指導に取り組んでいる。その他、コピー機の調子が悪いといえば点検し、トイレが詰まったと言えばプランジャーを持って急行するなど、雑務も全てこなさなければならない。決して『1週間を1日で過ごす男』ではない。もし、これを読まれた皆さんの周りで、このような話題が上ったときには、是非、お話しして頂きたい。

【存在の薄い教頭職】

日本で担任をしていた時には考えもしなかったが、子どもにとって教頭の存在は薄いように感じる。確かに、自分の小・中学校時代を振り返ってみても、「校長先生」は思い出すことができても、「教頭先生」は思い出せない。皆さんは、いかがだろうか。

赴任したての頃、子どもたちに声をかけると、素直な子どもたちは大きな声で挨拶をしたり、言葉を返したりしてくれた。さすがだと関心する一方で、その後の子どもたちのささやきがとても気になった。

  子ども@:「今の誰?」

  子どもA:「多分、先生?」

   私  :(分かっていないのか・・・。)

めげてはいられない。気を取り直して次々に声をかけていく。同じように元気な挨拶が返ってくる。そして、ささやき

  子どもB:「前、眼鏡をかけていなかった?」

  子どもC:「そうだったかも。」

   私  :(前任者と完全に勘違いしている・・・。)

4年目になると、さすがにこのようなささやきを聞くことは無くなってきた。低学年の子どもたちは「教頭先生」と声をかけてきてくれる。しかし、実は時々もう一人の教頭(教頭が2名配置されている)と勘違いされることがある。少しがっかりする瞬間でもあり、もっと存在感をアピールしなければと奮い立たせられる瞬間でもある。実際、どれだけの子どもたちが私の名前を覚えているのだろうかと思うこともあるが、怖くて確かめることなどできない。

【缶コーヒーはどこに】

ワシントン補習授業校(日本語学校)は、18名の運営委員により構成された「運営委員会」によって運営されている。月に一度定例の運営委員会を開催するが、必要に応じて小委員会を開催することもある。その小委員会の会議中に起こった、忘れられない…いや、忘れてしまいたい思い出がある。

その日の会議は夜に行われた為、委員の皆さんは職場から直接来られていた。当然食事などしておらず、私が買い出しに行くことに。校長からはコーヒーとスナックがあればよいと言われた。今であればスターバックスに直行するところだが、日本から来て間もなかった私は、ス−パーで必死になって缶コーヒーを探した。当然、缶コーヒーなどあるはずもなく、あきらめて他の飲み物を買い物カゴに入れ歩いていたとき、カフェオレらしきものを発見した。近づいてみると、容器にはコーヒーの写真。間違いない、カフェオレだ。しかし、値段が高い、1本6ドルも。人間、余裕のない時には都合の良い方に考えるものである、「きっと高級なカフェオレに違いない。奮発しちゃえ。」8本は買い込んだだろうか。ようやく見つけたカフェオレを手に急いで事務所へ。食料と飲み物を調達してきた私を歓声と拍手が待ち受けていた。私は誇らしげに「皆さんで分けて飲んで下さい。」と、カフェオレを間隔良く次々とテーブルに並べていった。ところが、誰も手を伸ばそうとしない。どうしたのかと思った瞬間、「これって。」という声が聞こえ、さっきの盛り上がりが嘘のように冷たい空気が流れ始めた。私が買った物はカフェオレではなく、『Coffee Creamer』(液体タイプ)だった。「仕方ないよ。」と言いながらも、引きつっていた皆さんの顔を今でも鮮明に思い出す。

3.帰国を前に

4年間にわたった初めての海外生活。文化や習慣の違いに驚き、子どもの宿題に泣き、リスや野ウサギ、蛍など自然の豊かさに感動した。時には、言葉の壁や日本とのシステムの違いにストレスを感じることもあったが、今になってようやく、それらを楽しめるようになってきた。

帰国まで4ヶ月。二度と経験することのないアメリカ生活を満喫したいと思う。