『明治・大正の経済界昔話(3)』
- 幻の大博覧会と明治神宮 -


在米日本国大使館
石井 裕晶

近代日本において、博覧会の開催や外国人観光客の誘致により、海外に日本の魅力を訴え、産業を振興しようとするアイデアは、古くて新しいものである。

2005年の「愛・地球博」は、総事業費として約3,400億円の経費をかけ、185日間で2,205万人、台湾、韓国、アメリカ、中国、オーストラリア、カナダなどから、一日平均約5,000人程度の外国人観光客の入場者を数え、大きな成功を収めた。

一方、外客の誘致については、2003年、小泉前総理のイニシアティブにより、政府一丸となって日本の魅力を高め、外国人観光客の誘致を促進する方針が決定され「グローバル観光戦略」に基づき、2010年には、外国訪日観光客数を約倍増して1,000万人とする目標の実現のため、「ビジットジャパンキャンペーン」を推進している。

同様の課題に取り組んだ明治の先人たちはどのような苦労をし、その足跡はどのように残っているのだろうか。

万国博覧会の開催計画

明治6年のオーストリアウィーン万国博覧会に初めて参加した経験を踏まえ、内務卿の大久保利通は、産業振興の観点から、国内でも博覧会を開催する方針を立て、明治10年に上野で第1回内国勧業博覧会を開催した。

博覧会に出展することを目標にして、輸出品の開発などを通じて国内の産業の振興を促すとともに、海外への情報発信を行うことも狙ったのである。

それ以降、政府は、内国勧業博覧会を5年毎に開催することを決定し、概ねその原則に基づいて内国博覧会を実施した。

第2回(明治14年)及び第3回(明治23年)は、東京の上野公園で、第4回(明治28年)は、京都で開催された。

第5回(明治36年)は、大阪で実施し、入場者は435万人、欧米から242人、中国や朝鮮半島から306人を数える来観があり、当時としては大成功を収めた。その後、明治45年に、この勧業博覧会の跡地で開催された大阪の地域博覧会のときに大阪を代表する「通天閣」が建設されている。

日清戦争(明治27年)が終了した後、東京商工会議所は、「自国の工藝商品を世界に紹介するとともに、外国品を展示することにより我が国の製品に様々な改良進歩を促すという効用がある。さらに、この機会を利用して日本の国そのものを世界に広告することである。日本の山水明媚、天然の景色に富んでいることを紹介して、日本をあたかも一大公園として世界の観光客を吸収する手始めとして万国博覧会は有意義である。博覧会閉会後も多数の来訪者を促すことになろう。」と、我が国における「万国博覧会」の開催を提案した。

日露戦争の後、この動きに弾みがつき、全国商業会議所連合会(日本商工会議所の前身)が「一大万国博覧会を開催することが世界各国と対手して争う『平和の商戦』上、我が国民の競争力を増大するにおいて最も適当有利なものである。多少準備に時間がかかっても必ず数年後を期して万国博覧会を適当の地に開催することを要望する。」との建議をしたことにも動かされ、政府は、本来の順番では明治40年に開催予定であった第6回の内国勧業博覧会を万国博覧会に変更できないか、検討することになった。

『平和の商戦』という言葉の中には、次の日本の国家目標として、好戦的な「軍事大国」ではなく、平和な世界において経済競争を勝ち抜く力のある「経済大国」を目指すことにして欲しいという思いが込められていた。

ステーションホテル構想

万国博覧会を開催して外国人を招く場合の最大の問題は、ホテルの確保であった。明治39年の外国人訪日者数は、約2万5千人であったが、当時は、帝国ホテル(東京)、都ホテル(京都)、富士屋ホテル(箱根)、金谷ホテル(日光)などしか、欧米の外人を受け入れるホテルは存在せず、しかも、ホテルの室数が少ないために、多くの客を断るような状況になっていた。

そこで、東京商工会議所が中心となり、『ホテル期成会』を結成し、協議を重ねた。当時慢性的に不足していた外貨を獲得するため、国策として外国人観光客を誘致する必要があるとして、鉄道の駅にホテルを設置することや、農商務省を他に移転して、現にある庁舎をホテルに改造したらどうかという提案さえ行った。当時の農商務省庁舎は、高橋是清が特許局長時代に強く働きかけ、当時としては破格の予算で建設したレンガ造り洋風の建物であったからである。

「政府が旅籠業を営むということは異様に感じるかもしれないが、既に鉄道業を営んでいるのであればおかしいことではない。このような感情を抱くのは官尊民卑時代の瞑想を脱却できない旧式の人と言わざるを得ない。」として、国策としてホテルを整備すべきと訴えた。

さすがに、農商務省の庁舎をホテルに改造するという奇抜な案は実施されなかったが、ステーションホテル構想は、辰野金吾が建築し、大正3年に竣工した、東京の中央停車場、すなわち東京駅に開業した「東京ステーションホテル」として実現し、現在でも存続している。

日本大博覧会の準備

万国博覧会を開催すると、交通網の整備やホテルの整備など莫大な費用がかかると想定されていた。しかし、厳しい財政状況に直面した政府は、万国博覧会の開催を断念し、万国博覧会と内国勧業博覧会の折衷型という結論に達し、名称を「日本大博覧会」、主催は政府、開催期間は明治45年4月1日から10月31日まで、場所は東京、直接経費1,000万円、財源は国庫500万円、開催地東京市300万円、博覧会収入200万円、敷地30万坪と決定した。

そして、明治43年、日本大博覧会の予算が成立し、政府は、諸外国政府に参加勧誘を行った。日露戦争勝利により世界の中で日本への注目が高まっていた時期だけに、海外から積極的な参加表明がなされた。

早々に、メキシコが明治40年9月に日本大博覧会に賛同することを表明し、米国のセオドア・ルーズベルト大統領も参加を表明すると同時に、議会において予算を確保した。明治40年8月、政府は、日本大博覧会総裁に貞愛親王を、日本大博覧会会長に金子堅太郎を任命し、農商務省に事務局を設置した。金子はハーバード大学留学中にセオドア・ルーズベルト大統領と同級生であった。

政府も大博覧会の準備に追われた。当時、ヨーロッパをあまねく視察し、欧米の事情を視察し、外国人の意見も聞いた博覧会事務局の坪谷善四郎は、『観光地としての日本』」について次のような問題を指摘している。

ホテル 帝国ホテルを除けばホテルらしいものはない。東京だけではなく、横浜にも日光箱根にもない。給仕も英語は何とかできても他の言葉は分からずお客との会話ができない。
案内者 言葉は一応できても、地理歴史について説明ができない。
交通機関 電車は通っているが、外国人が乗って行き先が一見してわかる電車はほとんど見当たらない。西洋人が乗れるような立派な貸馬車や自動車はない。
見物場所 どこの国でも首都に行けば王宮を見せるか、王宮が見せられなくても離宮や庭園は見せるものであるが、日本ではできない。外国人が満足するだけの劇場の設備、博物館、美術館、動物園そのほかの名所旧蹟など博覧会以外に外国人が滞在してみたいと思う場所はない。
道路 道路は歩道と車道の区別がない。いつも道路工事で道を掘り返しているので道がよくならない。道端に溝(どぶ)があって臭いにおいのするところが多いし、道端に電柱がたくさんあって頭の上に針金を縦横に交差するようなところは他にない。
下水 日本では水道はあるが下水はない。下水は道端の溝を流れている。大小便を白昼汲みとって持って歩く国がどこにあるか。
子どもや新聞が追いかける 外国人が歩くと子どももついて歩く。新聞も私行を書く。日本では女が名物であるが、ちょっとどこかへ夜分酒でも飲みに行くと、芸者を呼んでどうのこうのと書き立てる。
物価 価値が高くないのに他国に比べて物価が高いことには恐れ入る。

現在は、子どもは追いかけてこないが、外客が簡易に予約・宿泊できるホテルの問題、公共施設などにおける外国語表示の問題、歩車道の分離、電線地中化、下水道整備など、未だに本質的には変わっていない問題も多い。

政府は、日本大博覧会用の敷地として、明治40年10月、青山練兵場15万坪及びその周辺、代々木御料地16万坪、両所の連絡所を確保した。

このように、博覧会の準備は着実に進んでいたが、明治41年に第二次桂内閣が発足すると、陸海の軍事拡張や地方の鉄道や港湾整備のための予算が膨張し、政府は財政上の理由から日本大博覧会を5年間延期し、開催を明治50年とすることを決定した。こうして明治50年まで延期されたものの、明治44年に成立した第二次西園寺内閣の財政整理において、「不急の事業」として再度延期が決定され、最終的に明治45年に、政府は正式に廃止を決定した。ここで「日本大博覧会」は、幻の博覧会として消え去った。

日本政府は、参加を表明していたアメリカ政府などの外国政府に事情を説明して、理解を得た。政権交代とともに、博覧会は財政上不急の事業として位置づけられ、予算削減の対象になりやすい。一部財政負担をしていた東京市は、政府に強く抗議したが受け入れられなかった。

1995年に、当選したばかりの青島東京都知事が、東京都が計画していた「世界都市博覧会」を中止した例も思い出される。この後、我が国で国際博覧会が開催されるのは、1970年の大阪万博まで待たなければならなかった。

明治神宮の造営を

時は大正に進む。

明治45年7月30日、明治天皇の崩御が明らかにされた。日本の近代化を進めた偉大なリーダーであった明治天皇の死は、国民に大きな衝撃を与えた。そこで、明治天皇崩御の数日後から、渋沢栄一、中野武営(東京商工会議所会頭)、阪谷芳郎東京市長が、御陵の誘致、それが不可なら神宮の設置を実現すべく西園寺公望首相や原敬内務大臣に働きかけをはじめた。

しかし、明治天皇の御遺志により既に御陵は桃山に決定していたため、これら財界の有志らは、「神宮は内外苑の地域を定め、内苑は国費をもって、外苑は献費をもって御造営を決定して欲しい。神宮内苑は代々木御料地、外苑は青山練兵場が最も適当の地である。外苑内には、頌徳記念の宮殿及び臣下の功績を彰すべき陳列館、そのほか林泉等の設備を施していただきたい。諸般の設計及び経費の予算を調整し、奉賛会を組織し、献費取りまとめたい。」との意見書を取りまとめ、神宮の誘致を目指した。

内苑と外苑という形式により、神苑としての内苑と文化施設や公園を含む外苑を別々の土地に造ることによって神宮以外の記念事業を求める声に応えることとし、二つのものを一つのものと見なしたらよい、との創造的発想であった。

明治神宮の敷地決定

この当時、明治天皇の記念する事業としては、博物館、図書館、銅像、記念門、美術館、科学院、街路樹、職業斡旋の拡充など多くの提案がなされた。

石橋湛山は、偉大な明治天皇を記念するものとして、ノーベル賞をモデルとした明治賞金の創設を提唱した。また、東北大学総長の長柳政太郎は、神社には宗教的意味が混じっているので異教者が存在する中で国民の統合に亀裂が入ると批判したが、当時の雰囲気としてこのような批判は低調であった。

一方、大隈重信は、青山に神宮を建設し、一大公園地にすることを主張した。「恋愛の醜行地」ともいうべき公園と、神社は両立しないとの主張からだった。

地元や民間における要望の高まりを受け、明治天皇が崩御してから1年後の山本権兵衛内閣のとき、政府は、公式に神宮建設を決定した。

最大の問題となったのは、鎮台の場所の選定であった。

東京の中では、青山練兵場、陸軍戸山学校、小石川植物園、白金火薬庫跡、豊多摩郡和田堀内村、豊多摩郡代々幡村大字代々木等の候補地が挙がった。

一方、「明治天皇は東京だけのものではない。」として、全国から多くの陳情が行われた。富士山、御岳山、筑波山、国府台、宝登山、朝日山、箱根山、国見山なども候補地として挙げられた。

結局、大正3年1月の調査会において、立地は明治天皇と最も縁の深い、東京府下に求めること、「神宮」として社格は官幣大社とすることが決定された。

そして、東京府内の各候補地を検討した結果、最終的に豊島御料地(代々木に所在する約21万坪)が候補地として選定された。

この地に立地が決定したのは、東京市が日本大博覧会として既に青山練兵場の博覧会用地を一部購入していただけではなく、南豊島御料地にも日本大博覧会のために貸し付ける土地を確保していたからである。

東京市や東京商工会議所を中心とした財界が、天皇崩御の後、短期間のうちに明治天皇の記念という事業の内容のイメージと立地地点について極めて具体的に提言し、これを実現できたのは、日本大博覧会の構想が長く温められていたからであった。ここで、一度消え去った「日本大博覧会」の構想が「明治神宮」という恒久施設に姿を変えて活き返ったのである。

日本大博覧会の敷地を確保するために尽力した角田真平は、「もし青山を神宮建立地にして、大森林にすれば二三百年後には幽遂森厳の地になることは疑いがない。」と述べて、青山練兵場付近を推薦していた。現在の鬱蒼とした明治神宮の森は、当時の造園技術の粋を結集した人工林である。その後、都市化が進んだ東京都心に、膨大な緑を残した先人の先見性には目を開かされる。

官民合同のプロジェクト

大正3年4月に大隈内閣が成立すると、政府は、内苑は国が整備するが、外苑については、「明治神宮奉賛会」が実業界と国民からの寄付を集めて整備することを正式に決定した。そして、コンペ方式で外苑を整備することになった。

民間が分担する外苑の経営資金として、100万円は奉賛会、100万円を東京府、250万円を他府県において取りまとめることとしたが、最終的には内地において600万円、外地で70万円という予想を上回る募金を集めた。

外苑の構想は、青山練兵場及び権田原町にいたる地域に樹林や泉池を設けて公園とし、葬場殿址記念建造物、聖徳記念絵画館、競技場を設け、中央には芝生を設け、周辺には樹林を設ける計画であった。

また、東京市は、南側の参道については表参道として青山から高樹町にかけて整備し、北側では代々木口から参道を整備することになった。絵画館には、各界から明治天皇と明治時代にゆかりの絵画が寄付された。

大正9年、明治神宮内苑が落成し、外苑は、大正15年に落成した。

その後の明治神宮外苑

外苑では、競技場を会場として明治神宮体育大会と呼ばれるようになった運動競技大会や、昭和2年にはじまった都市対抗野球、一高三高戦、東京六大学リーグ戦が開催された。戦時体制に入ると、昭和17年には中央広場が陸軍防空陣地となり、昭和18年には競技場は学徒出陣の場となった。

戦後、神宮外苑は、連合軍に接収された後、明治神宮に払下げされる一方、神宮競技場は国に譲渡され、国立競技場となった。そして、昭和39年に開催された第18回オリンピック東京大会の会場となった。

全国の経済界や国民の寄進によって造られた明治神宮外苑は、遡れば、『平和の商戦』という、平和を希求した万国博覧会構想にはじまり、「明治」という時代への感慨、若き学生たちを戦場に見送った思い、オリンピックを開催し、戦後の孤立から国際社会に本格的に復帰した喜びなど、近代日本の様々な思いを受け止める舞台となってきた。

(つづく)


(注)古川隆久「日本大博覧会について」、山口輝臣「明治神宮の成立をめぐって」参照。なお、本稿は筆者の個人としての見解であることをお断りします。