『明治・大正の経済界昔話(4)』
- 経済界の声は、政治の場に届くのか -


在米日本国大使館
石井 裕晶

景気の回復のために、公共投資を拡大するべきか、それとも減税によって個人消費を引き上げるべきか。財政再建のためには、増税か歳出削減か、あるいは減税により経済を発展させて歳入を拡大させるべきか。

このような議論は、日米問わず、近代国家において尽きることのないものである。日本の戦前も、財政や税制のあり方について政治の場で激しい議論が行われ、時として大きく日本の政治を動かしていた。しかし、当時の経済界の地位は決して現在のように高くはなかった。また、当時は財政に占める軍事費の比重が圧倒的に高かったこと、税収が地租に偏っていたこと、外貨による国際収支の天井が厳しかったこと、普通選挙制度ではなかったことなど、現在とは、環境が大きく異なっている。

そのような制約の中で、当時の経済界は、経済政策や財政税制政策に対してどのように自らの意見を反映させようとしていったのか、そのために政治とどのようなかかわりがあったのか、今回と次回でそのあらすじをたどってみたい。

営業税の創設

明治23年に日本で始めての帝国議会が開催された。この当時、「富国強兵」、「殖産興業」をスローガンとする超然主義の政府に対して、主として高額の地租を納めていた地主達を支持母体とし、「政費節減」「民力休養」を掲げ、「小さな政府」と「租税(地租)の軽減」を訴える国会議員が対立し、議会審議は難航を極めた。

明治27年の日清戦争が終了すると、政府は、「臥薪嘗胆」のもと、軍事支出をはじめ、戦後経営のための膨大な歳出予算の確保と同時に、それに見合う歳入の確保を図る必要に迫られた。

初期議会における政府と議会の対立の経験から、この時期になると、政府は、予算案や増税案を議会で通すには、政党との協力を求めなければならないことを痛感する一方、政党サイドも、単に政府を批判するだけではなく、むしろ政権に参画することにより、地元への利益の還元など、党勢を拡張することを目指す方向に転じはじめた。

相互の利害が一致し、明治29年、自由党の支持を得て第二次伊藤博文内閣が成立し、板垣退助が内務大臣として入閣した。続いて進歩党(立憲改進党の後身)の支持を得て第二次松方正義内閣が成立し、大隈重信が外務大臣として入閣した。

このような政治的環境が整ったところで、政府は、歳入を確保するため、まずは、商工業者に新たな負担を求めた。営業税を国税とし、建物賃貸価格、資本金額、売上金額、請負金額、従業者数を課税標準とする外形標準課税として事業者に課税することとし、明治30年からこれを実施した。

これに対して、全国商業会議所連合会(日本商工会議所の前身)を中心とした経済界は、営業税を導入する前に、まずは軍事費などの歳出の大幅な伸びを抑えるべき、商工業者に課税をするのであれば、法人所得税を課税すべきであり、利益も出ていない企業に恣意的に選んだ外形標準で課税するのは租税の公平性と透明性の原則に反する、として強く反対した。

しかし、政府にも議会においても、このような商工業者の意見を代表する議員はほとんどおらず、営業税はそのまま国税として成立した。しかし、現実に外形標準課税として営業税の課税がはじまると、課税評価や徴収方法に恣意性が残り、全国各地で事業者と税吏の間で紛議が起こった。そして、これは、引き続き、後に大きな政治問題に発展する伏線として残ることになった。

この時の営業税問題をきっかけにして、経済界が政治との関係について、関心を深めるようになっていく。

地租の増徴の実現

営業税の導入だけでは、到底歳入の確保はできないため、松方正義内閣は地租増徴を実施する方針をたてた。そこで、大隈重信はこれに反対して閣外に去った。続く第3次伊藤博文内閣も議会で地租税率の引き上げを提案したが、自由党と進歩党は一致協力してこれを否決した。いずれも地主らを支持母体にしている政党であり、地租の増徴は決して受け入れられるものではなかった。

この地租増徴への反対をきっかけにして、仇敵であった自由党と進歩党が合同して「憲政党」を結党し、明治31年、大隈重信を総理大臣兼外務大臣とし、板垣退助を内務大臣とする、「内閣」が組織された。この「隈板内閣」は、陸海軍部大臣を除き、全ての閣僚が憲政党員であるという日本初めての政党内閣であった。増税という経済問題が、政治を再編し、初の政党内閣を生み出したことになる。

しかし、この隈板内閣は短命に終わり、「憲政党」も、自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂した。そして、次の山県有朋内閣は、議会で多数を占めていた分裂後の憲政党と組み、地租の引き上げを図った。

この時、駐米公使として、米国政治における議会における多数の確保の重要性やPork and Barrel 政治の現実をつぶさに見ていた星享(憲政党)は急遽帰国し、あらゆる財源を活用しつつ、地租増徴法案を通すための多数派工作に奔走した。

渋沢栄一をはじめ経済界の大部分は、財政の健全化と金融緩和を求め、増税するのであれば商工業者への課税よりも地租増徴の方がよいと、地租増徴を支持した。

憲政本党は地租増徴に反対したが、衆貴両院は多数でこれを支持し、地租増徴法案が成立した。その結果、地租率は2.5%から3.3%に引き上げられた。

この後、伊藤博文は、議会における安定多数政党の必要性を痛感し、地方の名望家を主たる支持母体とした憲政党(自由党の後身)とともに、自らが総裁となって明治33年、立憲政友会(政友会)を設立した。

日露戦争中の非常特別税課税

明治37年、日露戦争が始まると、膨大な戦費の調達のための非常特別税が増税された。非常特別税は、既存の地租や営業税、所得税、酒税など、税目ごとに増税分が決められ、石油消費税と織物消費税が新税として導入された。そして、翌年には恒久的な税として相続税が新設され、塩の専売制が実施された。

日露戦争は終了したものの、戦後の軍事費や、地方の鉄道や港湾の建設など公共事業費のための資金需要に応えるため、政府は、戦後も特別課税を廃止する姿勢を示さなかった。

そこで、商工会議所は、「非常特別税は、一時戦時税として賦課されたものであり、平和克復とともに廃止されるべきである。戦争中は国民もやむをえないものとして強いて負担を忍んでいた。しかし、このような強制状況を持続することは、税制の本義に適合しないだけではなく、民心を損ない、民力を萎縮させ税源を枯渇させ、結果として国力の発展を阻害することになる。断固として非常特別税を全廃するべき。」と、特に、「三悪税」と呼ばれた「塩専売」、「通行税」、「織物消費税」の廃止の建議を行った。

そのような中、明治40年秋に、アメリカ経済の不況が伝播し、株価が暴落するなど、日本経済は不況に見舞われた。輸出の激減により、繊維産業などの反対は激しさを増し、経済界全体として、減税を求める声が一層高まった。

しかし、不況と公債価格の暴落は、国の財政も直撃し、西園寺公望内閣(政友会)は、歳入の確保のため、明治41年度予算については、経済界が強く要望していた「三悪税」の廃止は行わないことはもとより、逆に新たに酒税と砂糖消費税の創設、石油消費税の増徴をする方針を決めた。

増税反対運動

「日露戦争も終了したのであるから戦前の税負担に戻すべき。」、「戦争が終わり平和な環境が整ったのだから軍事費を中心に歳出を削減して財政健全化を図り、金融の緩和を実現すべき。」、「不況のもとで減税をして景気を刺激することが重要。」との旨を訴えていたにもかかわらず、その主張が全く退けられただけではなく、逆に、政府が歳出計画をほとんど見直しせず、新たな増税をする方針を発表したため、経済界も益々黙ってはいられなくなった。

そこで、当時の唯一の全国的な経済団体であった商工会議所は、非生産的な軍事費が増大を抑えるべき、減税によって景気を刺激するべきと訴えて、全国的な増税反対運動を始めた。

商工会議所の連合会は、明治42年度予算の審議にあわせ、明治41年1月に開会し、全国の会議所の議員が2月に閉会するまでの間、上京して審議を継続し、増税反対のキャンペーンとロビー活動を行った。

商工会議所は、まず、財界の元老の渋沢栄一、三菱財閥の豊川良平や第百銀行の池田謙三など銀行界の重鎮の賛同を得た。金融界は、戦争が終わった後も国債発行による大幅な財政赤字の継続や国債市場の下落、増税による景気の後退を懸念していた。

さらに、商工会議所は、中小企業を構成員とした全国実業組合連合会とも提携し、経済界全体として増税反対の世論を喚起した。

しかし、陸海軍は戦後もさらなる軍事費の確保を求めていた。一方、西園寺公望内閣の与党であり、議会の圧倒的多数を抑えていた政友会は、地方の豪農や名望家を支持基盤としており、いわゆる「積極政策」を掲げ、地方の鉄道や港湾の整備、教育施設の充実を目指し、そのための財源確保のためには、都市部の商工業者への増税もやむを得ないと認識していた。

商工会議所の連合会が増税の反対と軍事費を中心とする歳出の削減を訴え、連日のようにその模様が新聞の一面に報道され、世論を喚起していくにつれ、政友会の指導者で、内務大臣であった原敬は危機感を募らせ、治安警察法により会議所の会員の活動を取り締まることを検討させた。さらに主務官庁から商工会議所に対して、「増税反対活動は政治運動に該当する恐れがある。」と注意をさせた。

このような圧力があったにもかかわらず、「会議所はかねてから税制や財政のあり方について建議を行ってきている。」、「政治的に声を述べるときは商工会議所議員ではなく個人の立場として行っている。」と反論し、増税反対運動を続けた。

国政に経済界の声を直接伝えたい

商工会議所は、世論を喚起し、激しい増税反対運動を行った結果、営業税創設のときに比べれば、野党たる憲政本党が増税反対に動くなど、議会でも一定の支持を集めた。しかし、議会の多数を握っていた政友会は、経済界の声を一切聞き入れず、議会で増税法案を一糸乱れずに成立させた。

増税反対運動の大きな挫折を経験し、既存の政治家には、経済の論理についての理解が乏しいばかりでなく、そもそも経済界の立場を反映してくれる議員が少ないことが根本問題であると痛感し、商工会議所の有志らは、自ら衆議院選挙に出馬して経済界の意見を国会に反映させることを考えた。

こうして、中野武営(東京株式取引所理事長、東京商工会議所会頭)、西村治兵衛(商工貯蓄銀行頭取、京都商工会議所会頭)などの当時の財界のリーダーが、明治41年春に行われた衆議院選挙に立候補し、当選を果した。まさに経済団体のトップらが、既存の政治家には経済政策は任せられないとして、直接に衆議院議員になった訳である。

そして、中野らは、片岡直温(日本生命会社社長)、仙石貢(九州鉄道社長)などの実業家出身議員をはじめ、会派の議席数を確保するため、既存の政党に対して独立の立場をとっていた代議士とともに、「戊申倶楽部」を結成した。

戊申倶楽部は、政友会や憲政本党という伝統的な二大政党に比べれば議席数は少ないながら、二大政党の間にあってキャスティングボートをとったり、大政党における実業家議員と連携をとることにより、商工業者への減税や歳出の削減など、経済界の政策的要望の実現を目指すことを狙った。

減税法案の否決

このときの総選挙では、政友会がむしろ議席を伸ばして改めて多数を確保したものの、経済政策の失敗を名目に西園寺内閣は、辞職に追い込まれ、明治41年7月、長州・陸軍出身の桂太郎に組閣の命が下った。

西園寺内閣の不信の理由が経済政策の失敗ということから、桂内閣は、自ら大蔵大臣を兼任し、財政経済運営を重視する方針を示した。

当初、桂内閣は、多数党の政友会を牽制するため、少数党であった憲政本党や戊申倶楽部などの少数党の支持を得ながら政策を進める姿勢をとった。

前の西園寺内閣の下で、増税法案が通過したことから、実業家出身の議員らは、桂内閣に歳出の削減を通じた財政健全化や塩専売、織物消費税及び通行税らの廃止の実現を期待した。

そして、桂内閣は、実際、陸海軍の拡張計画など各種事業計画を大幅に繰延し、大幅な歳出削減を断行した。しかし、捻出された財源については、まずは、公債償還に充当することにより金融界の要望に応じることとし、商工業者が望んでいた減税は先送りする方針を立てた。

商工業者への減税実現についての期待を裏切られた商工会議所は、明治42年度予算編成に向けて、前年と同様、三悪税の廃止などの税制整理を求めて、戊辰倶楽部だけではなく、政友会や憲政本党など各党に働きかけを行なった。しかし、この時は、金融界の呼応もなく、経済界全体として、増税反対運動は前年ほど高まらなかった。

世論の動向を見ていた政友会は、最終的に党論を統一させ、三税廃止法案の支持を行わないことを決定し、圧倒的多数をもって減税法案を全て否決した。

このように三税廃止法案を否決することによって、桂内閣の窮状を救った政友会(西園寺公望総裁)は、議会における圧倒的多数を背景に、この後明治45年まで、桂太郎とともに、いわゆる「桂園時代」という比較的政治的に安定した時代を導いた。

この時代をあえて単純化してみれば、軍事費の安定的確保を目指す軍部と、地方の公共事業予算の確保による積極政策(大きな政府)を目指す政友会が連携したのに対して、都市の経済界を代表し、小さな政府と減税を求めた商工会議所の勢力は、政治的にかなわなかったという構図であった。

経費徴収権の剥奪

商工会議所が慌てたことに、三税廃止法案が否決された直後、政友会は商工会議所の強制経費徴収権を剥奪するための法案を急遽成立させた。

当時の商工会議所法には、商工会議所の会費の滞納があった場合には、国税と同時に強制徴収することができる規定があったが、この規定を廃止したのである。

東京や大阪など大きな商業会議所は、国税同様の経費徴収を行わなくても会員組織で経営ができるが、地方の小さな商業会議所は経費徴収権がなければ、会費の徴収が事実上大変難しく、存立の危機に瀕する恐れがあった。

世間は、商工会議所が西園寺内閣の経済政策の失政をつき、政友会が前回の総選挙で不利になるとともに、政権を桂内閣に譲り渡さざるを得なくなった原因を作ったことに報復するとともに、商工会議所の活動を牽制するために、このような法案を成立させたと理解し、この法律は「商業会議所撲滅令」と呼ばれた。

商工会議所は自らの活動と会員個人の政治運動を峻別していたが、商工会議所が行った激しい増税反対運動は、反対の立場からは、政治的に偏向がある動きと見られたのである。

地租減税の実現

商工業者への減税を否決した翌年、明治43年度予算の編成に向けて、桂内閣は、経済界からの要望の一部に応えるため、減税効果のある税制整理を実施することを表明し、経済界もその実現に期待した。

しかし、税制整理案が提案されると、議会では、地租の軽減を度外視していることが大問題となった。

前年、商工業者の減税運動が燃え上がっていた時は黙っていたが、財源に余裕があり減税ができるのであれば、地租の減税が先であるという機運が高まり、忽然と地租減税論が沸きあがった。そして、与党の政友会のみならず、最大の野党の憲政本党もこれを強く支持し、それまでの議会史上最大で、全国から13万人以上の請願書が提出されるなど、減租運動が一挙に燃え上がり、地租の減税法は大きな問題なく成立した。日露戦争時の非常特別税により、3.3%から5.5%に引き上げられていた地租は、0.8%引き下げられた。

地方の地主や農業関係者は、商工業者に比べて、超党派の支持を受け、政治的に圧倒的に強い力をもっていることを改めて見せつけられた。

これにより、経済界が期待していた所得税減税などの構想は吹っ飛んだ。

圧倒的な政友会の力の前で、各種政党は勢いを失った。戊申倶楽部も、解散に追い込まれ、実業家出身議員の多くは無所属になった。経営者が自ら政治に参加して政治を変える、という戦略は実現できなかった。

以上、初期議会から明治末期に至るまでの、経済界と政治のやりとりを眺めてきた。

政府や与党からの弾圧も辞さずに、キャンペーンやロビイングを実施し、さらには、財界のトップが自ら衆議院に議席を求めて、議会に経済界の立場を反映させようとした奮闘ぶりには、現在から見ても驚くべきものがあろう。

しかし、明治初期に比べれば着実に実力を蓄えていったとはいえ、当時の都市部の経済界は、農村や地方の政治力には到底及ばなかった

次回は、このような経済界と政治の関係が、大正デモクラシー期に、さらにどのように進むのか見てみたい。

(注)歴史の事実、解釈を含め本稿は筆者の個人としての見解であることをお断りします。