『熟  年 離 婚』
(男からの質問)


木村 洋

先日友達から 「熟年離婚」 というテレビドラマのビデオが送られてきました。日本ではかなり好評だったらしいので、ご覧になった方も多いかと思いますが、定年退職の当日、妻から離婚を申し出られた男の、衝撃とうろたえ、怒りと悲しみ、立ち直りの努力と心の葛藤、家族との衝突と問題の認識、そして最後に一人だけの人生への再出発というプロセスを、主役の渡哲也が見事に演じきっていて、大変印象的でした。この年代の男の渋みと頼り甲斐を、あれほど美しく描いた映画もまた少ないのではないかと思います。そこに出てくる三人の子供達も、それぞれ自分の人生のドラマを抱えながら、常に両親のことを思い、家族の幸せを守ろうとして、涙ぐましい努力をする、その姿が実にけなげで、このドラマに味と深みを添えていました。一見頑固で古い父親の態度に表面では反抗しながらも、人生に対する基本的価値観の点では、子供達全員が父親を深く尊敬し、知らぬ間に彼に見習って生きようとしている点も、とてもうまく描かれていました。特に長女律子の役をやった高島礼子の演技が素晴らしく、豪放闊達なその外見にも拘らず、限りなく繊細な思いやりと暖かさを持った娘の、父親に対する深い愛情と心尽しが光りました。

それに引き換えこの物語のもう一人の主人公たる妻の方は、離婚を言い出した動機もはっきりせず、妻としての言い分も説得力を欠いて、折角のストーリーが弱くなってしまいましたが、その点には一旦目をつむり、彼女のせりふだけを取り出して聞いてみると、これまた世間一般の女性達の叫びを代弁しているかのようなラインが多く、色々と考えさせられました。この小稿の結論から先に言ってしまえば、「離婚したくなったら先ずその理由を再検討し、自分の本当の気持を探り、相手の立場でその言い分を理解する努力をして、一つでも答えが出なければ、全力で二人の関係の修復を試みるべきこと、そしてそれでも確実に愛の再建は無理だと分ったら、さっさと別れるべきこと」 です。これでは余りにも単純で、身も蓋もないように見えるかも知れませんが、離婚に関する日米の考え方の違いを比較しながらこれを見ていきますと、読者も意外に思われる点が結構あるのではないかと思います。

映画に出てきた妻の言い分の主たるものは :
  • 夫は家庭内の重要事を全て自分の一存で決めてきた。今の家を買う時も一言も妻に相談しなかったし、退職後の二人の暮し方も自分一人で決めようとした。
  • 妻にはいつも頭ごなしのものの言い方をし、彼女の意見を封じ込めた。
  • 子供の養育に全く参加しなかった。子供の将来や結婚についても、自分一人の価値観を押付けようとした。
  • 一度だって妻に対する感謝の言葉をかけてくれた試しがない。隠れた妻の努力も全く評価してくれなかった。
  • 食事から、着るもの、身の回りの世話まで、夫一人を維持するだけで、余りにも手間がかかりすぎた。
  • 子供は育ってしまったし、貯金はあるのだから、家族の為には何もしないで、年金だけくれる夫なぞもう要らない。
  • 長年にわたる小さな我慢が積み重なって、これ以上耐えられなくなった。 今はただただ彼から自由になりたい。
  • 自分なりの生き甲斐がほしかった。これからはそれを存分に追求したい。

・・・などでしたが、ここに並んでいるのは概して家族の安全と生活が保証された上での、夫の態度や考え方の問題であって、彼が暴力をふるったとか、不倫をしたとか、子供の教育を拒んだとか、その他人生の基本的価値や、主義信条、倫理観などに問題があった訳ではありません。これらは主に妻が家庭内で果してきた役割に対する不満や、その働きが十分評価されなかったことへの抗議などであって、離婚することで新たに何かが出来るようになるという、建設的な言い分としては、唯一 「自分なりの生き甲斐の追及」 という点があるだけです。然し映画では その生き甲斐とは何なのかも、結局はっきりしませんでした。

この種の不満や抗議だけを理由に離婚してみても、夫に対する一時的な反撃や復讐にはなれ、妻自身の永続的な幸せにはつながらないと思います。現にあの夫が証明して見せたように、必要なら男でも家事雑用から料理まで、ちゃんと出来るようになりますし、妻が残した心の空洞だとて、子供への愛や、新しい仕事への情熱などで、かなり埋め合わせることが可能ですから、妻が出ていくことで夫が被る物理的苦労も一時的なら、精神的苦痛も壊滅的ではあり得ません。妻にしてみればそれだけの復讐でも胸のつかえは下りるかも知れませんが、そのあと彼女がずっと一人で暮さねばならない苦労に比べれば、そんな一時的満足感など取るに足らないでしょう。

ああやって妻が家を飛び出した途端、ハンサムな同級生で独身の社長が現われて、埋もれた彼女の才能を引き出し、彼女にぴったりの仕事を与え、結婚まで申し込んでくれるなどという話は、現実にはまず絶対にないのですが、あんな好条件に恵まれて、自分なりの生き甲斐を見つけたかに見えた彼女でも、仕事の上でその社長の好意に甘えることは出来ても、自らの意志で彼と結婚するところまでは踏み切れず、どっちつかずのままの一人暮しに耐えられなくなって、結局元の家に戻りたいと言い出したのでした。家を飛び出す前に娘の律子から 「お母さんはもうお父さんのこと愛してないの?」 と尋ねられた妻は、「愛してたら離婚なんて言い出さないわよ」 と答えていますが、一人になったらすぐまた元の家に戻りたいと言い出したことから分るように、彼女が愛していたのは子供達のいる暖かい家庭の雰囲気に過ぎず、初めから夫個人ではなかったのですから、そんな夫と別れて家を出てみても、彼女にとって事態が改善する筈はなかったのです。

それに対し夫の方は、離婚のショックに一時はたじろいだものの、問題を直視出来たあとは、再び自分の生き甲斐だった橋梁建設の仕事を求めて、海外へ雄飛するという、ポジティブな転身をすることが出来ました。最初は受身に回っていた夫の方が、結局は自分なりの明るい未来を見つけることが出来たのに対し、何もかも希望通りになったかのように見えた妻の方が、いざ蓋を開けてみたら中はカラだったというのは、初めから彼女にはそれといって箱の中に入れておくべき生き甲斐も目的もなかったからであって、この結末は決して偶然でも皮肉でもありませんでした。この差に明らかなように、主婦というのは、日頃から自分なりの生き甲斐を開発しておく上でも、圧倒的に不利な立場に置かれています。やはり女性ならではのハンディキャップはあっても、若い内から努力してそれなりのキャリアを築くか、何か一生の生き甲斐になるような目的を見つけ、そのための技能や経験を積んでおくことが望まれる所以です。

映画だけでなく、現実社会でも、家庭に対する夫の無理解と、仕事の世界に対する妻の無知とが、些細な日常の行き違いを増幅して、いたずらに問題をこじらせている場合が多いように思います。日常生活の負担が主婦に集積している一般的な日本の家庭では、そんな行き違いのプロセスも重なって、夫の退職だけではなく、転勤や子供の独立など、何かきりのいい所でそれらの負担から一挙に解放されたいと願っている妻も多いのかも知れません。団塊の世代が停年を迎える今、妻の方から離婚を求めるケースが急速に増えると予想する向きもあるようですが、果たしてどういう理由でみんなが離婚するのか、それ次第ではこれは恐ろしく不幸な結果を招くかも知れません。時代の波に乗って離婚を考える人達は、先ず自分が相手の置かれた立場や状況をどこまで理解しているのかを吟味し、自分の言い分の妥当性を検討し、本当に愛が冷めてしまったかどうかを探らなければ、長期的に満足の出来る結論を出せるとは思えません。

然し離婚を考えるような人の心理は大きく揺れ動いているため、本当に愛が冷めてしまったかどうか、自分でも中々決められないのが普通です。従ってこの点を無理に追求するよりは、結果としてその離婚が成り立つかどうかという、実利的側面を先に検討する方が早いと思われます。そのプロセスを具体的にたどる内に、本人にも自分の気持がどこにあるのか、次第に見えるようになるからです。言うまでもなく離婚に際して真っ先に持ち上がる実利的問題は、一人で生活が成り立つかどうかという点です。2007年から年金分割制度が導入されることもあって、女性の立場も少しは改善されるでしょうが、パートの仕事と分割年金だけで離婚した女性一人の生活が成り立つかどうか、また仮に生活は成り立っても、それで彼女が望むほどの自由が得られるかどうかは、まだ疑問です。特に日本の年金分割はゼロサムゲームなので、妻の取り分が増えるだけ、夫の取り分は減るわけで、それが今以上に恐ろしい夫婦の争いに発展しないという保証もありません。

次に問題になるのは健康と心のケアです。熟年なら誰しも年々衰え行く体力に不安を覚えない人はないのですが、一人暮しの寂しさには、体力だけでなく心の張りもないと耐え難いように見えます。女性の場合は既にそれまでに沢山の友達をつくり、趣味のグループなどにも参加して、自分なりのネットワークを築いている人が多いのですが、それによって皮相的な日常生活の淋しさは紛れても、人間の本質的な孤独感が満たされるとは限りません。かくて誰しも一人になった途端に、自分の本当の生き甲斐をどこに見つけるかという、元々あったのにそれまで気付かずにいた課題にぶつかる訳です。そしてその課題にうまく答えられないと、やがて気が滅入り、健康も蝕まれて、下向きの螺旋階段へと落ち込んでいくことになります。人によってはそれが怖い余り、もっともっと遊び回り、その享楽的日常の空しさ自体が、またその孤独感に拍車をかけるという、悪循環に陥ることもよく見かけるところです。

こうした物理面、心理面、両方の問題の深刻さを測りかね、結論が出せないでいるのに、なぜかやり場のない怒りと不満だけはふつふつと沸きあがってきてたまらないような人が、離婚という形で爆発する前に、先ず自問してみるべきなのは、「それならなぜ自分は今まで我慢したのだろう?」 ということでしょう。特に上記のような不満を抱える妻の場合、その夫は確かに旧時代的家父長制度の影響を受けていたのかも知れませんが、彼女自身も、夫の勤続中は家庭を守るのが自分の役目だと思っていて、社会から爪はじきにされることなく家を出られるようになるまで、じっと待っていたのではないでしょうか? もし彼女が本当に映画に描かれていたほどの才能を持ち、しかもそれを自覚して一人で行動出来る人だったなら、何も夫の定年まで待たなくても、いつでも子供達を連れて出て行くことが出来た筈なのに、なぜそれをしなかったのか・・・ それは結局彼女の側にもそれなりの計算があり、義務感があり、社会通念への配慮があって、それらが満たされるまでは動けないと思っていたからでしょう。その意味で彼女もまた無意識の内に、「家族全員が一致団結して会社のために尽す」 という 「日本株式会社のやり方」 を受け容れていたことになると思います。従って夫が家庭を顧みず、会社一辺倒で暮してきたことだけが問題であるというよりは、むしろそこまで徹底した滅私奉公を、夫にも妻にも要求してきた日本株式会社のやり方こそが、より大きな問題と言えるのではないでしょうか? つまり妻を苦しめてきたのは、夫個人というよりは、「夫を含む、社会のシステム」 だったということです。

戦後の急激な経済発展に最も好都合なように、社会全体が組織化される過程で、ピラミッドのあらゆる階層が、その一つ上の階層のために全面的に滅私奉公する仕組みが出来、人の考え方や価値観、教育から文化まで、あらゆるものがそれにふさわしいように編成された結果、激しい競争に伴う軋轢やひずみの方も、あらゆる階層がそれぞれのやり方で、それを分担することになりました。家庭生活の負担が妻に集積する一方、会社では競争の軋轢が夫に集積し、経済社会全体の内圧もまた大手と下請けの力関係や、企業と監督官庁との上下関係の中に吸収されていくという、ひずみの分散と犠牲の階層性が出来、みんながそれぞれに我慢し、頑張ることになりました。それが今時代が変わって、不満の表明が許されるようになり、従来型の相互依存関係が緩んできたために、問題が個人のレベルでは 離婚、転職、不就職 (フリーター、ニート)、不結婚 (パラサイトシングル)、不登校 などの形で表面化し、組織のレベルでは、リストラ、乗っ取り、社員のバイアウト、ストックオプションで損失を社員に分散した後の倒産、などの形で現われているのではないかと思うのです。

而もこうした企業経営も、社会構成も、生活文化も、日本にとっては言わば歴史的必然で、止むを得ない面が多かったのではないでしょうか? 発展途上国が日本の高度経済成長から学ぼうとする時、まず通らねばならない関門が、日本的社会文化構造を真似出来るかどうかという点であることに明らかなように、このやり方は日本の繁栄と表裏一体をなしたもので、結局日本にとっては止むなき選択だったかも知れないのです。大半の日本人は、それを意図的に選択したとは思っていなかったかも知れませんが、とにかくそういう選択がなされ、それに従って行動することを人々が暗黙の内に了承していたからこそ、あの驚異的経済成長が実現したのではないでしょうか? それならその結果としての繁栄を享受してきた人は誰しも、自ら好んでそのシステムに組み込まれてきたわけで、今更その奴隷になるのは嫌だと言って、その文化を捨てることは出来ないのではないかと思います。こうした考え方、生き方、家族関係などを捨てることは、今の豊かな暮しを可能ならしめたメカニズム自体を否定することになるからです。

映画の中の夫は、妻が出て行ったあと一人で暮らす内に、家事雑用の大変さを知り、隠れた妻の努力を知り、子供達に対するそれまでの自分の高圧的な態度にも思い至って、以前とは別人のように寛容な人間になるのですが、少なくともそうした成長を遂げる以前の彼は、以前のやり方でしか自己の責任を果たす道を知らなかったわけで、彼なりに一所懸命ではあっても悪意はなく、むしろそれが彼の限界だったのだと言えるでしょう。他方妻の方も、強い夫の行動に引きずられるまま、一人で家を飛び出す勇気も実力もなく、泣き寝入りするほかなかったというのなら、夫に横暴という限界があったのと同様、妻にも非力という限界があったわけで、共に仕方がなかったとしか言えないのではないでしょうか?

もし 「何かを知らないこと」 自体が罪であるのなら、夫がそれまで 「家族に対して別の接し方があるのを知らなかったこと」 は、彼の罪と言えるかも知れません。然しそれなら彼の退職まで何のヒントも与えぬまま、じっと離婚を言い出すのを我慢していた妻にもまた、「それとは別のやり方があることを知らなかった」 責任があるのではないでしょうか。確かに家庭ではいつも彼女の方が折れて夫のやり方に従わなければならなかったかも知れませんが、実は彼自身もまた、会社では有無を言わさずノルマを押付けられ、家族を踏み台にしてでも頑張らねば、やっていけなかったのではないかということです。その意味でこの場合、二人がお互いを傷つけ合ったというよりは、むしろ二人共が一所懸命社会のシステムと文化の一翼を荷い、同時にまたその犠牲になったという方が、当っているような気がします。

こうした社会のシステムにがっちりと組み込まれた家庭内の軋轢を、何も言わずに長年溜め込んでおいて、相手が予想もしなかった時に突然爆発するのではなく、譲れないことは毅然としてその時々に譲れないと伝えること、それが結局は夫婦のためにも、子供のためにもなると思います。まただからこそ 「徹底我慢、最終爆発」 方式だけではなく、問題の 「早期発見、早期解決」 が出来るような文化を、日頃から作っておくことが必要なのです。もうとっくに手遅れになってしまってから、漸く弱い者に爆発する機会を与えるのではなく、日頃から弱い者にも対等に発言出来るような文化習慣を作っておくこと、それがなければいつまでたっても、弱い者は我慢に我慢を重ねた上、もうどうしようもなくなってから爆発するというパターンを繰り返すだけでしょう。

問題の早期解決のためには、最終的手段としての離婚も当然考えなければならないでしょうが、それを可能にするには、いつ離婚しても、男女共に一人でちゃんと食べていけるような経済的基盤が保証されねばなりませんし、一方の親のもとに残されることになる子供の養育や、他方の親との定期的接触の保証、親が再婚した際の新しい家族やコミュニティによる連れ子の受け容れなど、経済的、文化的、社会的 「受け容れ体勢」 が整っていることが必要です。離婚王国アメリカでは、この種の受け容れ体勢もかなり整備されていて、例えば独自の収入のない妻が離婚した場合、夫がもらう国民年金の半分相当の年金を、夫の取り分を減らすことなくもらえますし、離婚に伴う殆どの出費 (引越し、訴訟、職業訓練などの費用から、子供の養育費まで) を課税控除額に含めることが出来ます。その他色々と整備された社会的支持のメカニズムを見ると、あたかも国が離婚を奨励しているのかのようにさえ見えるのですが、人々の方も離婚を当然の生活現象と考えていて、日本のように 「バツイチですけど・・・」 などと断るどころか、本人の前で平気で 「これは夫の連れ子です(This is my step son…)」 などと言いますし、子供の方も平気で 「私の義理の母です」 と紹介したり、本人に呼びかけるにも 「お母さん」 という代わりに 「ジェイン」 などと、その名前を呼んだりします。そんな表現にも誰も冷たい感じは受けないようですし、両方の連れ子同士が新たに兄弟として暮すのも平気らしくて、ままこいびりみたいな現象もあまり見かけません。結婚した夫婦の半数以上が一度は離婚し、再婚回数も複数の人が多いような社会ですから、当然といえば当然でしょうが、逆に日本のように、こういう文化やシステムが整っていない所で、流行に乗って突然離婚件数だけが増える方が、むしろその後の問題が多いのではないかという気がします。

こうした社会のあり方の差を反映してのことでしょう、離婚手続きとその背後にある法の精神の点でも、日米間にはかなりへだたりがあるようです。日本では夫婦双方が署名した離婚届を役所へ出すだけで離婚が成立し、財産分割など細かいことは全て両当事者の合意に任されていて、当事者が訴訟を起さない限り、法の側から進んで介入することはないのに対し、アメリカ (といっても州により違いますが、例えば私の住むバージニア) では、先ず離婚届を出せるところまで行く前に、一年間の法的別居期間が必要とされ、而もその間ちゃんと別居していたことを証明する第三者の証言が求められます。財産分割や、子供に対する親権、養育費負担義務、子供との面会の権利とルールなど、事後に問題になり得る分野についても全て細かい法規があって、それらに従わない限り離婚は認められないようになっています。これは一見アメリカの方が圧倒的に離婚が多いことと矛盾するようですが、逆に余りにも離婚が多いからこそ、法の方から積極的に介入して、両当事者の平等な扱いをはかり、特に子供の利益を保護することに大変な注意を払うようになったのではないかと思われます。一年の別居期間を義務付けているのも、若い夫婦が子供の将来のことも考えず、一時の感情で離婚してしまわないよう、確認期間を過させる意味があるに違いありません。こうした社会的受け容れ態勢が整備されていない日本で、ただそのやり方の上つらだけを見て、みんながどんどん離婚してみても、アメリカより悲惨な結果に終る確率は高いでしょう。少なくともこうした社会体勢が整うまでの間に離婚する人は、自分が大変なパイオニア役を買って出ているのだということを、知っている必要があると思います。

パイオニアのリスクを知りながら、それでも自分は一人で生きる自由の方がいいというのなら、それはそれで立派な選択だと思いますが、面白いことにそうした 「自己の運命を切り開く意志」 は、結婚をまとめる方向にも働くことが可能です。我々が恋愛結婚など考えもしなかったと思っている昔の人は、意外にその辺の心理メカニズムを経験から知っていたのではないでしょうか? 見合い結婚をとりもった昔の仲人や親達は、「くっつけてしまえば何とかなる」 と言って、無理やり結婚をまとめてしまうことも多かったのですが、結婚する本人達の意思を無視した点では、確かに現代には通用しないものの、「愛は結婚した後でも育ち得る」 という彼等の主張には、今でも注目すべきものがあるように思います。人間には確かに 「意図的努力で、自分の中に愛の気持を育てる」 という能力があるからです。いやむしろこれこそが正に人間を他の動物達と区別する一番重要な点だとさえ言えるでしょう。

動物達にも、子孫繁栄のための本能的な愛だけでなく、もっと純粋で精神的な愛があることはよく知られています。私は記録映画で、アフリカ象の群れが川を渡る時、たまたまそこに居合わせた小さな亀を、あとから来る仲間に踏み潰されないように、象があの巨大な足で、実に上手にそっと横へ押しのけてやるシーンを見たことがあります。チンパンジーの母親が豹に殺された時、その直前にその母親から生まれた赤児を他のメスが拾って育てようとし、母乳が出ないので結局その子が死んでしまっても、幾日も幾日もその子の死骸を胸に抱いたまま、群れの中をさまよい歩く姿を見たこともあります。アメリカの荒野でわなにかかって捉えられたメス狼を助けようと、つがいのオスが人間の住む町へ単独で襲撃をかけ、結局は彼自身も射殺されたという話は、色んな人が記録しています。本能を越えた純粋な愛の行動は、動物達にもそれなりの形で存在するのです。

ただ、結婚したあとで本当の愛を育てるという作業こそ、人間だけに許された最高の精神活動だと思えば、離婚を考える人も、それに踏み切る前に、まだまだ自分には出来ることがあるのではないかと、もう一度状況を見つめなおしてみる気にもなれるのではないでしょうか? そしてそれが結局は自分のためにもなるとしたら、破局へ向けて爆発する前に、もう一度だけ立ち止まって、考えてみる価値があるのではないでしょうか? そしてそれをやった上で尚、この愛の再建は無理だと確信出来たなら、熟年であると否とに拘らず、一日も早く別れたらいいと思います。

お互いの気持が冷めてしまった結婚など、いつまでもしがみついていても仕方がありませんが、特に一方又は双方が相手を恨んでいる夫婦が、その胸の内を明かさぬまま一緒に暮す場合の、子供に及ぼす悪影響には、計り知れないものがあります。一見幸せそうに見えながら、心は凍りついた夫婦の下で育った子供が、将来自分自身の結婚に際して、実に色々な、説明不可能な問題に陥ることは、専門家の分析を待つまでもなく、ちょっと身の周りを見回せば すぐ分ることです。その意味で 「子供のために涙を呑んで添い遂げる」 ような結婚は、一つの社会的契約をまっとうするという、形の上の責任は果たすことになっても、結局は世間体のために子供の心の健康を犠牲にする行為に他なりません。子供達にとっては、夫に押さえ込まれたままいつも泣き寝入りしながら人生を呪って生きる母よりは、仮に赤貧に身をさらしてでも、思い切って子供と共に家を飛び出す母の方が、少なくとも絶望的問題にぶつかった時には、毅然たる態度で対処する勇気と行動力を示すことになって、その後の彼等の成長と精神的健康にプラスになる筈です。

それにどうせ別れるのなら、熟年になって体力も衰え、社会からも雇用機会を奪われてからするより、まだ二人共何とでもなる若い内にする方がいいに決まっています。それでなくても社会的に弱い立場にある女性が、改めて自分のキャリアを開発し、それに必要な力をつけるには、大変な時間がかかるのです。子供にとっても学校へ行くようになってからでは、特に中学・高校のような精神的に最も傷つき易い時期になってからでは、親の離婚は余りにもダメージが大き過ぎます。その上日本の場合、熟年になるまで待っていたら、再婚の可能性も加速度的に減っていくでしょう。従って少なくともどちらか一方の気持が冷めてしまったことが確実なら、一日も早く別れる方が、お互いのためだけでなく、一家全体のためにもなると思います。

(2007年2月)