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![]() ![]() 『明治・大正の経済界昔話(5)』 - 経済界と大正デモクラシー -
在米日本国大使館
前回は、明治40年代はじめ、桂内閣が、商工会議所を中心にした経済界が減税を要求したものの力が及ばす、議会で完膚なく否決されるまでの動きを記述した。今回は、大正政変と営業税廃税問題をめぐり、経済界の動きが、いかに「大正デモクラシー」の時代を動かしてきたかを見てみたい。石井 裕晶 前回の最後にふれたように、明治末期は、桂太郎(陸軍出身)と西園寺公望(政友会)が連携し、政治的には安定したいわゆる「桂園時代」が続くことになったが、一方で、軍事費と公共事業を中心とする財政支出が継続したため、国家財政は破綻の危機に直面するに至った。 政府は、財政赤字の補填を外債に頼り、国債に占める外国債の比率は、明治末期は60%近くになった。財政赤字の継続により貿易収支も悪化し、借金の利子を行うために、借金を行うという無理を重ね、海外投資家の見る眼も厳しくなっていった。明治末期にはこのような方法が限界に到達し、外債の募集も困難になり、兌換制度さえも危機にさらされた。 減税か陸軍増師か 明治45年度予算編成に向けて、陸軍は師団の増設、海軍は艦船の増強、政友会は公共事業の拡大、商工会議所は減税を、競って要望していた。 こうした中、明治44年8月、桂太郎は、西園寺公望(政友会総裁)に政権を譲った。西園寺内閣は財政再建を重視し、民間(日銀)から山本達雄蔵相を起用した。山本は経済界からの信頼も厚く、新規事業の中止による緊縮政策を徹底し、主要事業は明治46年度以降に繰り延べした。その結果、明治45年度予算案は大きな波乱を招くことなく組成された。それぞれのグループは、予算拡張要求を我慢し、次年度以降に持ち越すこととした。 前年に要求を抑え込まれたので、その挽回を図ろうと、明治46年度の予算に向けて、陸軍、海軍、政友会(公共事業)、商工会議所(減税)の間で、改めて確執がはじまった。このような中で、明治45年7月、明治天皇が崩御し、大正に改元された。 8月、山本蔵相は、46年度予算編成に先立ち、陸軍の元締めであった元老山県有朋を訪ね、内々予算案を説明した。山県は、陸軍の要求する増師を計上していないばかりではなく、その内訳として減税1500万円、海軍充実費1000万円増加を計上してあったことから、不快感を示した。 大正2年度の予算編成をめぐり緊張が高まっていく中、商工会議所は、10月、全国商工会議所連合会を開催し、財政が膨張し税負担が増大していること、軍事費が過大で産業予算が過少であること、官業が膨張し民業が圧迫されていること、対外貿易が逆調で兌換制度が危機に瀕している現状から、軍事費に偏った財政の是正、行財政改革の断行により財政の基礎を強固なものにすべしとして「財政経済に関する建議」を行ない、世論を喚起した。 松方正義や井上馨らの元老も行政整理を支持し、経済界や新聞もこれらの論調を支持したので、世論も行政整理が進むことを期待した。 しかし、朝鮮半島における二個師団の増師要求を決して諦めない陸軍の姿勢を見て、東京商工会議所の中野武営会頭は、11月17日山本蔵相を訪ね、異例の午前午後二回にわたる8時間にわたる議論を行ない、増師の非を訴えた。 大正の政変 このような動きがあったものの、11月22日の閣議においては、正式に上原勇作陸軍大臣から、朝鮮半島における二個師団の増師案の概要が報告された。 これを受けて、25日、東京商工会議所は、臨時会を開催し、陸軍の増師案について「全国実業家を網羅した商工会議所連合会は多年、軍費の偏重を慨し、財政の縮小を願ってひたすら経費節減、民力休養を唱導してきた。膨大な政費に大節約を加えて負担の過重を軽減し、過大なる軍事費に外科的大手術を施して、よく財政の緊縮を行うとともに、根活困憊(こんぱい)した民力を休養させて経済界の根底を培うべきである。もし主義を受け容れた現内閣が、不幸にして軍国主義者のために敗れることがあれば、代わって出てくるかもしれない恐ろしい武断政治に対しては挙国配水の陣をしいて大正第二維新の劈頭(へとう:冒頭)を飾るべきである。」と激しい口調で増師案を批判し、西園首相、山本蔵相、牧野顕信農相など閣僚に対して、「内閣の玉砕」をかけて二個師団増師要求に反対するように要望した。 東京商工会議所の動きは、ただちに新聞に大きく報道され、各地の商工会議所もこれを支持した。また、与党の政友会の中にも、増師反対同盟を組織するなどの動きが起こった。 最終的に西園寺内閣は、11月30日の臨時閣議で陸軍の要求した増師案を否決することを決定した。これを確認した上原陸相は、現役武官として、12月2日、大正天皇に対して直接に辞表を提出した。西園寺首相は、山県有朋に後任の陸軍大臣の推薦を求めたが、代わりの陸相の推薦を拒んだため、12月4日、西園寺内閣は、総辞職に追い込まれた。 一連の陸軍の動きは、「陸軍のストライキ」と言われ、国民に大きな衝撃を与えた。明治41年に政友会の第一次西園寺内閣が倒れたのは、商工会議所が、西園寺内閣の財政税制方針を支持しなかったことが要因となったが、このときに第二次西園寺内閣が倒れたのは、逆に、商工会議所が西園寺内閣の財政改革を支持したことが要因となった。 政友会の幹部は、陸軍の二個師団問題について態度を留保していたが、「陸軍のストライキ」に対する世論の反発が高まり、地方の支部や院外団などグラスルーツからの激しい突き上げにより、憲政擁護運動が巻き起こっていった。 後継首相の選出に難航を極めた元老会議が、12月17日、陸軍出身の桂太郎に内閣を組織する大命を下すと、政友会の尾崎行雄と野党第一党の国民党の犬養毅は、これに反対し、「閥族打破」「憲政擁護」をスローガンとして憲政擁護運動を展開し、全国各地で憲政擁護大会が開催されていった。 大正2年1月、帝国議会が開催されると、政友会と国民党が内閣不信任案を提案した。議事堂は憲政擁護運動を支持する多数の民衆に取り囲まれた。後に「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄は、この時「(桂首相)は口を開ければ、直ちに忠愛を唱え、彼らは玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸にかえて政敵を倒さんとするものではないか。」という有名な演説を行い、桂内閣を糾弾した。そして、2月11日、桂内閣成立後約50日で退陣した。これが「大正の政変」と呼ばれる。 当時の政友会の幹部であった岡崎邦輔は、「憲政擁護会の人が口を開けば全国に饗応した。単に交詢社や国民党や政友会のストーブの傍らで語られただけではなく、小さな商店の隅々においてまで噂されていた。小さな商店の隅々までの政治的自覚の高まりこそは、日露戦争以降の減税運動の成果であったのであり、商工会議所とその連合会の果たした役割は大きい。」旨述べている。 山本内閣組閣と行政改革 陸軍出身の桂内閣が倒れた後、2月20日、薩摩出身の海軍大将、山本権兵衛に組閣の命が下った。 議会の多数を占めていた政友会は、山本内閣が組閣されると直ちに支持を表明した。しかし、「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄や犬養毅は、政権が陸軍長州閥の桂内閣から海軍薩摩閥に替わっただけの山本内閣を、単純に支持することはできないとして、尾崎は政友会を脱会し、国民党の犬養毅も山本内閣に厳正中立の立場をとることを表明した。 山本内閣は、大正政変の反省を踏まえ、行財政改革を第一とした。早速、陸軍の二個師団の要求を撤回するとともに、3ヶ月後の6月には、それまでに西園寺内閣時代が行っていた検討結果を踏まえた大胆な行政整理大綱を発表した。 法律勅令の制定改廃178件、一般会計と特別会計をあわせて、官吏を6876人削減、俸給約400万円、政費削減2146万円、繰延2億2400万円で、政費節約額は7037万円に上った。政費節約額は、大正2年度の歳出総額の11%強に当たった。さらに、文官任用令の改正を行い、特別任用の幅を拡大し、陸海軍大臣の現役武官制も廃止した。実人員の削減も含むこれほどの大規模な行政改革は、行政史上空前のものであった。 商工会議所の「営業税三割減」建議 山本内閣が、積年の経済界の要望に応え、大胆な行財政整理を行って、恒久財源が捻出されたことを見て、商工会議所は、山本内閣の改革断行を高く評価し、日露戦争後から長年主張してきた本格的な減税を、いよいよ現実のものとすることができるのではないかと期待した。 そして、大正2年10月、全国商工会議所連合会が開催され、「営業税は課税の標準が複雑で負担の公平を欠き、税率が過重であるため、全廃することが最も希望するところであるが、少なくとも三割以上の減税を実行すべき」と提言した。全廃を要求するのではなく、謙虚に「三割減」とする代わりに、それを確実に実現することを目標にした。 営業税全廃運動 大正2年末に開会した帝国議会の当初においては、政府及び各党は営業税減税の方針を合意しており、商工会議所も「営業税の三割以上減」という方針を固め、他に大きな議案も予想されていなかったため、議会は順風万帆に進むと見られていた。しかし、結果的に議会には激しい怒涛が押し寄せることになる。 前年の大正政変で尾崎行雄や犬養毅が組織していた憲政擁護会は、行政整理によって生じた恒久財源を使うのに、「営業税三割減」では不十分であり、「営業税全廃」をスローガンを掲げて、広く世論に訴える戦術をとった。 前回見たように、明治30年に営業税が導入されたときは、議会でこれに反対するものはいなかったが、この頃になると、議会でも営業税の廃止を強く支持する動きが生まれてきた。憲政擁護会を中心とした野党三党は、営業税全廃という方針で共同歩調をとることにした。 野党が営業税全廃を訴え始めた中で、大正3年1月末開催された全国商工会議所連合会は、実行委員会を開催し、昨秋に決定した営業税三割減の方針を維持するのか、それとも全廃を訴えるのか、白熱した議論を行い、最終的に、商工会議所も全廃を求めることに方針を変更した。 そして、活動方針として、会議所のメンバーが、東京及び各府県の選出代議士を訪問し、政党の支持を求めること、他の団体とも連携をとることを決めた。 野党が全廃を要求する中、政府は、営業税減税法案を提出した。しかし、提案された減税額はわずかに470万円の減税額にしか過ぎなかった。さらに、国民の望む減税は抑える一方で、山本内閣が1億6千万円の海軍予算の増額要求を行うことを決定したことは世論をさらに刺激した。 全国各地の商工会議所、実業団体、商工団体、県民大会、市民大会などが次々と廃税の決議や請願を提出しはじめた。 大阪では、2月2日に堂島座において開催された「廃税大演説会」では、尾崎行雄を迎え、翌日は、大阪商工会議所が営業税廃止大阪実業団連合大会を主催し、減税を支持する国会議員は支持しない、などの決議を行った。 2月9日、築地精養軒において「営業税全廃大演説会」が開催された。ここで初めて、それまで別々に行われてきた廃税運動が連合を形成し、全国商工会議所連合会の有志、全国実業組合連合会、東京実業組合連合会、東京市全区連合会、東京府市会議員有志、営業税全廃同盟会が結束し、営業税の廃税に向けた気炎を上げた。2月10日に予定されていた予算案の審議に先行して意思表明をおく趣旨であり、200名が、演説会の後、丸の中に廃の字を記した旗を立て、東京実業連合会会長で衆議院議員の星野錫を先頭に衆議院に押し寄せた。 さらに、商工会議所や実業協会の有志らは、「大日本商工協会」という任意団体を作り、営業税全廃に反対した代議員に対し、「将来、衆議院議員及びその他全ての公職に選挙しないことはもちろん、併せて一切の交誼を絶つ。」との決定を行った。 シーメンス事件の発覚 議会では、当初、営業税廃税問題が最大課題となったが、1月末、ドイツのシーメンス社が、我が国の海軍将校に「コミッション」を支払ったという贈賄事件の報道がなされた。それ以降、憲政擁護会は、シーメンス事件をもとに政府を追求し、2月9日、野党により海軍問題に関する内閣弾劾決議案が上程されたが、与党の政友会が多数により否決した。しかし、激昂した群集は、夕刻となり、新聞社や交番を襲撃しはじめ、警官がこれを追い払おうとして刀を抜いて民衆の中に入って斬りつけるという流血騒ぎが発生するまでの騒動になり、野党は、山本内閣への批判を一層強めた。 政友会の「三割減」支持 このようにシーメンス事件が議会の大問題となっていくのと並行し、2月初めから、営業税廃止法案、通行税廃止法案、塩専売廃止法案、織物消費税廃止法案、石油消費税廃止法案などの審議が始まった。 政友会は、与党として営業税減税か、全廃かについての態度を留保していたが、世論や商工業者、商業会議所の運動に動かされて、山本内閣と同じ方針のままでは世論の支持を得られない状況に追い込まれ、党内にも減税論が噴出した。 政友会では、小坂順造、指田義雄など商工会議所関係議員や実業家議員が中心となって減税を求めた。 最終的に、原敬や高橋是清ら政友会幹部は、2月13日、1500万円以上の減税を求める方針を固めた。本件は党派的問題であり、野党が主張するような営業税の撤廃は支持しないが、減税は支持するというものであった。 この時、最も政友会を動かしたのは、商工会議所などの経済界の働きかけであった。商工会議所は、明治42年に三税廃止法案を議論した時、最大与党の政友会を敵に回した。しかし、今回の廃税法案の時は、政友会を説得し、廃止までの支持は得られなかったが、減税法案を提出させるところまで進んだ。選挙制度が変わるにつれ、政友会の内部にも実業家出身の議員の数が増加していた。 営業税審議の大混乱と減税の成立 2月14日、営業税の審議当日の昼過ぎに日比谷公園松本楼において「廃税国民大会」が開催された。小泉又次郎代議士は、大阪商工会議所の掘田元次郎を導き、「国民は営業税の全廃を要求す」との決議文を採択した。 当日、委員会での審議がはじまると、政友会は、とっさに政府提出の営業税改正法案に対する修正案を提出し、営業税廃止法案の否決動議を提出した。 野党の委員は床板を鳴らし、各党幹部が詰めかけ、議場騒然とした中で、委員長が廃税案の採決を宣言すると、「議場は乱麻の如く怒号罵声に満ち、憤まんの極度に達せる各議員の毛髪は逆立し、顔面朱を注ぎて、まながしらも裂けんかと見えたり。」との状況になった。さらに、本会議に移り、政友会から営業税法廃止法律案等について一切の質問及び動議を提出せしめないとの動議が提出されると、議員は足音を立て、「議場の轟々(ごうごう)さながら地獄の釜底の沸き立つに似たり」との様相となった。 小泉又次郎は、「この首が落ちても投票を為さしめず」と叫び、他2名の議員と議長席に駆け上がって怒号したため、「三人演説」と呼ばれた。 議場では空前の大紛擾が起こり、議長は散会を命じ、採決は翌日に持ち越されることになった。衆議院では、最終的に野党の提出した営業税の廃止法案は否決され、与党の政友会が提出した減税法案が可決された。 貴族院も基本的に政友会の修正法案を支持し、営業税786万円減(3割減)、地租200万円減、織物消費税400万円減、通行税1万円減、相続税1万円の合計約1500万円の減税を実現した。しかし、貴族院は、衆議院が認めた海軍予算を大幅に削減し、大正3年3月、山本内閣は瓦解した。 教科書にはよく「山本内閣はシーメンス事件で辞職した。」と記述されているが、この営業税廃税運動の影響の大きさを見過ごしてはならないだろう。 第一次世界大戦の勃発と営業税廃税運動の中止 山本内閣が総辞職した後、大正デモクラシーの機運の中で、元老らは後継首班の選定に行き詰まり、一転、在野にいた大隈重信を推薦し、大隈内閣が組閣された。 それまでの政治の雰囲気の打破して欲しいとの期待が高まり、空前の「大隈人気」が沸騰した。 商工会議所は、大隈内閣になっても営業税全廃の矛先を収めなかったが、第一次世界大戦が勃発し、日本が8月に参戦を決めると、戦時体制のもとで国論を分裂させるべきではないとして、営業税の廃止運動を当面中止することになった。 その後、第一次世界大戦中は、バブル景気にも支えられ、営業税問題は、政治問題の表舞台から姿を消した。 しかし、大戦が終了し、景気が後退する中で、税制整理問題が再燃し、ワシントン条約を取りまとめた海軍出身の加藤友三郎内閣は、所得税、営業税、印紙税の合理化と売薬営業税と石油消費税の廃止を決定し、これを大正12年度から実行した。 営業税の廃止 大正15年、憲政会の若槻禮次郎内閣の下で、営業課税の方法を課税標準を外形標準から営業純益に根本的に変更することとし、「営業税法」を廃止して、「営業収益税法」を制定し、昭和2年から実施された。営業税が廃止され、所得税を直接税の中枢に据え、通行税、醤油税、売薬税を廃止、織物消費税のうち綿織物を除外した。 こうして、いわゆる三悪税のうち、通行税と、織物消費税のうち綿織物のような大衆課税にかかわるものも廃止された。塩専売制度は平成9年度まで残ったが、商工会議所が明治29年から主導してきた目指した税制の改正は、30年かけてようやく実現した。 以上、前回と今回の二回にわたり、減税問題をめぐる経済界の動きを中心に、明治から昭和初期までの政治経済の流れをたどって見た。 この時代、財政や税制についての意見を国政に反映させるため、経済界が、現在のワシントンで行われているような激しいロビイングなどを通じて政府や議会に働きかけをしてきたことは興味深い。それだけではなく、一定の制約はあったもの、明治憲法下でも、財政や税制などをめぐり、活発な言論と、議会を通じた民主的な議論が行われていた事実も再認識する価値があろう。 |