![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() ![]() 『ハナミズキを愛した人:峰さんをしのんで。』
上野真城子
1997年の4月、さくら祭りの終わったとき、まだ肌寒さの残る浅い春の一夕、ワイオミング通りのタフト・ブリッジ・インで、ワシントン・ジャパニーズ・ウィメンズ・ネットワーク(WJWN)とワシントン・コア共催の『ハナミズキを語るゆうべ』が開かれた。話し手は峰与志彦氏、丁度10年前のことになる。よく知られているように、ポトマック河畔のさくらは、タフト大統領夫妻の希望を受けて1912年、尾崎行雄東京市長が苗3000本を贈ったことに由来する。この過程には様々な人々の誠意に満ちた努力があったわけで、日米交流の最もよき成果といえるものだ。 その返礼としてタフト夫妻はドッグウッド(アメリカ・ハナミズキ)を、1915年に白い花木40本、1917年に紅い花木13本を東京市に贈った。さくら植樹から経ること80年、1991年に当時ワシントンのさくら祭り実行委員会におられた菅野光公氏が、知人で「尾崎行雄を全国に発信する会」の会員であった峰さん(この方が私たちにはなじみ深いので、こう呼ばせていただく)に、この贈られたハナミズキたちはどこに行ったのだろうという問いかけの手紙を送った。菅野さんはアメリカ人からそれを聞かれたのである。それまでハナミズキについてはほとんど忘れられていた。 その問いに打たれて5年、峰さんはこのハナミズキの原木の行方を探し続けたのである。1997年の峰さんのワシントン訪問は、翌月に放映のNHKのTVドキュメンタリー「ハナミズキ探訪」の取材が付いた、いわばハナミズキ調査の総括といえるものだったのだ。私たちネットワークの日本女性たちはこの峰さんのアメリカ滞在を様々に助けた。『ハナミズキを語る夕べ』はそうしたことからの集いだった。 峰さんはなぜハナミズキを探し出そうとしたのだろうか。その夕べ、峰さんは情熱をこめて彼のハナミズキを探す旅の思いを語ってくれた。心苦しいながら簡単にまとめればこういうことになる。 彼は1933年(昭和8年)生まれ、多感な少年時代を過ごしたのは戦争下の東京であった。彼は父親の出征の時、御国のために戦って下さいと血書をしたためた軍国少年であった。東京大空襲の中で逃げまどい、12歳で終戦を迎える。墨でぬりつぶされた教科書、皇国史観のひっくりかえされた日本を見、新憲法下で中高教育を受ける。彼には民主主義の時代がまばゆくうれしかった。そして自分を狂わせた戦前の教育への憤りを持つようになる。戦中戦後、ひもじさの中で育ち盛りであった世代、今70歳前後の世代には、大事な学びの時代に間違った価値を植えつけられたことへの怒りと、真に平和と民主主義への願いがある。 峰さんは、ニコニコマーク(黄色の丸の中に単純な線で表した)のパテントを取ったこともあったが、基本的には企業人ではなく、創造的な自由人、染色や焼き物を作る芸術家で、自らを造形作家と呼んでいた。(実は私の峰さんとの縁は、私が小学生のとき、芸術家の卵であった峰さんが東京目白の我が家の庭に窯をつくって焼き物を教えてくれたときからなのである。)本格的な芸術活動は神奈川県津久井町に彼の工房を持ってからのようだ。私もこの間のことは詳しくは知らない。しかし、この津久井が尾崎行雄との出逢いとなった。 尾崎行雄はいうまでもなく、立憲制議会民主主義の理念を打ち立て、合理的精神、世界平和世界連邦への希求を95歳でなくなるまで、一貫して主張し続けた政治家である。戦前は戦争に反対して非国民のレッテルをはられ、戦後は憲政の神様とされ、世評の激変する中、反骨の政治家としての姿勢は頑固で見事であった。尾崎の新憲法を支持した姿勢と新憲法理念の解釈は今時代を超えての卓見である。 津久井は尾崎の生地であった。ここで峰さんは尾崎を知り、その生涯に強い感銘を受け、芸術家的情熱を持っていわば尾崎に傾倒した。津久井で尾崎記念館の設立に関り、「尾崎行雄を発信する会」事務局長となり、尾崎行雄の伝記出版し、さらに尾崎氏の娘である相馬雪香氏を深く敬愛し、東京の憲政会館の尾崎記念財団を手伝った。 その峰さんにとって「さくらのお返しのハナミズキはどこに行ってしまったのか」は電撃のような問いだったのだろう。「私がハナミズキの行方を探したのは、もう一度あの戦争の意味を問い直し、豊かさの中で渇き、生き甲斐を見つけられないでいる若い人たちに、自由の意味をかみしめてほしいからかもしれない。」峰さんはこう書き残している。 5年をかけた彼の調査の結果によれば、原木と断定してもよい木は都立園芸学校(世田谷区2本)、農水省果樹試験場・興津市場(清水市1本)、小石川植物園(文京区1本)であったという。原木ではないかと思われる木は、新宿御苑、有栖川公園、多磨霊園、井の頭自然文化園、神代植物園などにあったとのことである。そしてもうひとつわかった偶然とも言える事実は、贈られた苗木は一旦、当時、中野の結核療養所に隣接した野方苗圃で大きく育てられたとのことであった。峰さんの住まいのすぐそばであった。 この夕べ、峰さんはいつまでも尽きぬ思いでこれらのことを語ってくれた。 峰さんの旅の終わりごろにはいつもより早くハナミズキが開いた。ワシントン郊外のゆるやかな丘陵の住宅地に波打つように咲くハナミズキを見て、峰さんはしきりに、さくらもハナミズキも、アメリカではどうしてこれほどにのびのびとおおらかに開くのだろうと感嘆した。峰さんは日本に帰られてから、この旅を、この集いを、人生の最良の思い出と言われた。峰さんは1999年秋、不運な重い病で亡くなった。 今年になって、峰さんが生前、地元の東京中野区で活動され交流のあった市民の方から思いがけなくご連絡があり、峰さんの尾崎行雄と世界連邦を広めるという意志を受け継いで、平和運動としてのハナミズキ活動をはじめているということだった。その活動のひとつとして4月開園する中野区立江古田の森公園にハナミズキが植樹されるという。江古田の森にたくさんのハナミズキを植えたいというのが峰さんの夢だったのだそうだ。数少ない原木を持つ都立園芸高校で育てられた苗木が植えられるという。ワシントンのさくらのようにはいかなくとも、そして原木の数は限られているとはいえ、ハナミズキは日本で着実に根付き育っている。そしてさくらとハナミズキの交流には、尾崎行雄が願った戦争なき、平和な世界の構築という高い理念があることを子供たちに繰り返し伝えて欲しいというのが、ハナミズキを愛した峰さんからのメッセージと思う。
|