『日系アメリカ人戦争記念碑に寄せて』


内科医師 ハンター紀子

2001年に建てられた日系アメリカ人の戦争記念碑は、ユニオンステーションのすぐ側の、ルイジアナアヴェニューと、ニュージャージーアヴェニューの交差点にある。

アメリカ人として生まれてきても、日系人であるというだけで、日系アメリカ人は、アメリカ史上前代未聞の差別待遇を受けてきた。真珠湾攻撃が引き金となり、アメリカ国籍を持ちながら、敵国人として収容所に強制収容されるという、今から考えたら、信じられないような事をアメリカ政府は執行したのである。12万人の日系人がそれこそ数日のうちに立ち退きを強制され、行き先を書いた荷札を上着に付けられて、アメリカ人でも住まないような、砂漠のアリゾナ、厳寒のコロラドという遠方の地に送還された。

1988年、アメリカ大統領ロナルド・レーガンは、日系アメリカ人に対する政府の差別政策の事実を認め、国としての謝罪をした。強制収容された一人一人に、謝罪として、2万ドルほどの慰謝料が支払われたものの、失われた財産、自由、又、アメリカに忠誠を誓って戦死した多くの日系二世兵士の命は帰って来ない。

もちろん、戦争以前にも差別はあったが、日本人一世たちは、想像を超える努力により、それぞれの財産を築き上げていった。しかし、強制収容命令の下で、財産は二束三文で処分、それこそ着の身着のままの状態で、収容所までの長い旅路に着いたのだった。それからは、鉄条網が張りめぐらされた監獄同様の収容所の中の、馬小屋を改造したバラックが、日系アメリカ人の住まいとなったのだ。

日系アメリカ人戦争記念碑は、このようなアメリカ人への差別の歴史があった事、また、同じ間違いを国として犯さないよう、将来の世代に伝える事を願って、多くの有志の努力の結果建てられた。

記念碑には家族が強制収容されているにもかかわらず、アメリカに忠誠を誓って、アメリカ人として志願して戦死していった日系人一人一人の名前が掘ってある。すぐ側の壁には強制収容所の地名と、収容された日系人の人数がそれぞれ書かれている。円形にたててあるその壁の中心に立つと、壁に書かれた兵士一人一人、又、名前こそ掘られていないが、何千、何万という人たちの声が聞こえてくる。

記念碑の中心には、ブロンズの彫刻が立っている。日系アメリカ人の失った自由を象徴するように、空を舞う自由を奪われた2羽の鶴が、鉄条網にがんじがらめになっている。

私は2001年の記念碑創立式典から、毎年4月にこの記念碑の下で行われる、桜祭りフリーダムウォーク(Freedom Walk)の開会式で、アメリカ国家を斉唱する機会を与えられてきた。私は式典の前に、記念碑に彫られている兵士の名前や、収容所の地名を、必ず見る事にしている。そうすると、知らず知らず、私は鉄条網の中の日系人になっていく。乳飲み子を抱いて、砂埃の炎天下、鉄条網の向こうに羽ばたく星条旗を見つめながら、アメリカ国家を口ずさむ、日系アメリカ人女性になっていく。「こんな惨めな生活を強いられても、私はアメリカ人だ。日本人の顔をしていても、私はアメリカ人だ。私はアメリカ人だ。」と無言の声が聞こえてくる。

不思議な事に、魂に導かれてか、明るく歌うはずのアメリカ国家なのだが、静かに、寂しげに、歌が出てくる。アップテンポの国家が、ゆっくりと慎重に一語一語が、「私はアメリカ人だ。」とつぶやくように、自然に歌が出てくるのである。

国家斉唱だけではなく、これからも全てのアメリカ人の平等と自由のために、自分なりに努力していきたい。

後書

第二次世界大戦が終わっても、アメリカでは、自由への戦いは未だに続いている。9・11のテロ事件からは、中東系のアメリカ人が以前の日系人のように、政府のターゲットになっている。この記念碑の創立にあたって発起した、National Japanese American Memorial Foundation (http://www.njamf.com) は、日系アメリカ人ばかりでなく、アメリカを母国とする全てのマイノリティーの平等と自由のために、日夜活動をしているnon-profitの団体である。お問い合わせは、1620I St, NW, Suite 925,Washington, DC, 20006, ph. 202-530-0015まで。