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![]() ![]() 『明治・大正の経済界昔話(6)』 - 学園紛争を収拾したのは誰か? -
在米日本国大使館
昭和43年、東京大学医学部でインターン制度に反対して無期限ストに入った学生を大学が処分したことをきっかけとして、東大闘争全学共闘会議(「全共闘」)が結成され、「東大紛争」が激化していった。加藤一郎学長代行は、昭和44年1月、バリケードで封鎖されたキャンパスに機動隊を入れることを決定し、占拠していたヘルメット姿の学生が投石し、機動隊が放水や催涙ガスを散布するなどの「安田講堂攻防戦」が繰り広げられ、社会に大きな衝撃を与えた。政府・与党は、紛争が発生した大学の機能の停止を盛り込んだ「大学の運営に関する臨時措置法」(昭和44年8月成立、平成11年12月廃止)を立法するなどにより対応し、学生運動は、その後徐々に沈静化し、今やキャンパスで学生運動という言葉を耳にすることは稀になった。石井 裕晶 今回は、明治から大正時代に社会の耳目を引いた学園紛争である「東京高等商業学校申酉事件」(明治42年)及び「早稲田騒動」(大正6年)のあらすじとその収拾の過程を紹介してみたい。 商科大学の設置を 「申酉事件」とは、明治42年、東京高等商業学校(現在の一橋大学の前身)の大学昇格に反対した政府に対して学生全員が退学して抗議した事件である。 明治時代も後期になると企業や産業の成長に応じて、近代的経営を行っていくために、高い教育を受けた実業家の養成が求められるようになった。 そこで、当時の商業教育の中心であった東京高等商業学校は、中学及び商業学校と直接連絡をとる大学を設置し、商業教育の一系統を作るべきであるとの提言を行ない、学生や卒業生は、政界、実業界の有力者を訪問し、東京高等商業学校を商科大学に昇格すべきことを訴えた。 同窓会は、次のような内容の『商業大学に関する意見書』を発表して、東京高等商業学校学校を改造し、商業大学として、これに高等商業学校と同一程度のものを併置させようと訴えた。 商業大学の目的は、商業界における各種の企業を研究して経験の中から一定の原理法則を発見し、これを有為な青年に伝えて現在の大規模かつ複雑な世界的企業を統括、経営するのに足りるだけの知能を養成することにある。 天才と経験と僥倖によって財産を作り地位を作った商業家は、商業は学府において学べるものではないというが、商業大学は、知識の力で天才を発揮させ、僥倖の原因を分析して確実明敏な先見力を養成することができるようにするのである。 商業大学の目的は企業家を養成するのであり、学科においても商事経理、会計学、各国商業事情、銀行、保険、交通、商品、外国為替保険のための数学及び統計、内外金融事情など、政治経済学科等とは根本的に趣旨が異なる。現在、大学において研究する法律経済の多くは国家からの観点に限定され、実業家から見た方面がほとんど忘れられている。 欧米でも米国のハーバード大学が10年前に商科(ビジネススクール)を設立し、高等普通教育を終了したもので、2年間で卒業試験に合格したものにMaster in Business Administration(MBA)の称号を与える。英国バーミンガム商科大学は3年でBachelor of Commerceの称号を与えるなど諸外国においても事例は多い。 商科大学を設置する場合、東京高等商業によってこれに当てるべきである。これまでの東京高等商業を度外視してこの問題を解決するべきではない。この商業大学設立のためには10万円以内の増額で対応できるものであり、これにより有為の企業家を養成できれば天下にとってすばらしいことではないか。 東京高等商業学校専攻部の廃止 けれども、東京高等商業学校の要望にかかわらず、小松原英太郎文部大臣は、学制統一の観点から帝国大学法科大学内に「経済商科」という学科を設立する方針を決定した。 渋沢栄一ら東京高等商業学校の商議員も、商科大学については、まずは一橋現校を用いること、それが不可なら一分科大学として設置すべきことを文部省に申し入れたが、聞き入れられなかった。こうした大学や政府の動きに反発し、佐野善作ら四教授は辞表を提出し、松崎校長も辞職を申し出で、学生も大学や文部省への批判を強めた。 しかし、文部省は、4教授の辞職は許可できない、私的問題のために授業を廃するものであり不穏当である、学生の本分を忘却して大学設立運動に奔走していることを制止せずに運動を助長するような規律のない学校は閉鎖するべきである、問題は一教育上の問題ではなく、一政府の威信の問題である、という理由から、反対運動を行った学生の懲戒処分を断行するとした。 一方の帝国大学の評議会は、5月1日、商科の併置を認める決定し、続いて5日、高等商業学校で大学レベルの教育を行っていた高等科を省令の施行により廃止した。これにより、東京高等商業学校の高等教育の部門が廃止され、さらには大学昇格への道が完全に閉ざされてしまうことが確定した。そして、高等実業教育は、帝国大学法科の一学科において行われことになった。 この措置に学生や教授らは反発を強め、大学や政府との対立は決定的になった。 この状態を見かねた東京商工会議所は、文部省に対して、商科大学問題は一般実業界に多大の影響を及ぼすので、文部省及び帝国大学の意見だけではなく、東京高等商業学校商議員の意見も聞くように申し入れを行った。しかし、状況は変わらず、反発した学生が学生大会を開催し、措置の撤回を求めた。 高商同窓会全国大会では、江原素六(麻布学園創立者、政友会)らが「商大期成同盟」を結成し、次期の帝国議会に向けて、引き続き運動することを決定し、江原とともに大隈重信、安部磯雄らは、2000人の聴衆を前に文部当局を批判し、事態は政治問題化していった。 学生総退学 思いつめた学生らは、学級委員会を開催し、予科1年、本科1年、2年は総退学を決定するに至った。本科3年、専攻1,2年は留校して再起を図るべきであると主張したが、最終的に多数決で「総退学」が決定された。 そして、徳野隆祐委員が、廊下に立って粛として悲痛の音調で委員会で決議された三か条を読み上げた。「文政当局のなる、母校三十年の光輝ある歴史と天下の公論とを無視して遂に一橋十年の主張を蹂躙しさる。痛恨胸がるといえども吾人の策は既に尽く。今や血涙を呑んで最愛の母校を去るも吾人が熱烈なる愛校の精神はに至っては誓って天地を感動せしめずんば止まず。」と述べ、委員の提唱により、一同国家を合唱し、一橋会歌が歌われた。「ああ一橋空高き 母校の春の朝ぼらけ 銀杏の梢青葉して」その声は涙となって感極まって慟哭、絶叫し、最後の力を振り絞って大日本帝国万歳、東京高等商業学校万歳を三唱し、母校正門に一同整列して訣別の式が行われた。 財界による学生の説得 事態を憂慮した東京、大阪、横浜、神戸、京都の商工会議所、東京高等商業学校商議員、及び父母保証人会の3団体は、学生の代表を招き、無条件の復校就学の勧告を行った。学生側の意向を確認したところ、商業大学を一橋に設置すること、商業大学の設置を見るまで専攻部を存続させることの二点に帰着することが確認された。 学生の間では、無条件復校反対論が多数を制していたが、財界などの勧告を受け、八十島親徳、佐野善作らも参加し徹夜の議論を行って採決をした結果、一旦「復校」を決定した。続いて、学生委員会の復校を正式に決定するために学生大会を開催することになった。 しかし、学生大会は結論を出せなかった。そこで、東京商工会議所会頭中野武営、商議員渋沢栄一、父兄保証人会島田三郎など三団体代表が、再度学生の説得に当たった。 中野会頭は、「この問題の解決をつけるのには二段の順序をとるしかない。我々が政府と諸君の中間に立って、調停を試るとか、仲裁をするのであれば、双方に対して一度にこれでどうか、というべきであるが、我々の考えは決して仲裁調停をすることではない。諸君に復校を勧めるのに無条件というのは甲斐のないようであるが、いやしくも国家の問題、もしくは政府に対する問題のようなものは、我々が所信を以って行うしかない。商売とは違い、この箇条はこうしましょう、どう致しましょうという筋合いのものでない。だから無条件というのである。およそ天下には世論というものがある。政治家も論ずるであろう。実業家も論ずるのである。ただ、政府が聴かないといっただけで済む問題ではない。それを為すにも諸君が復校をしてくれなければ、我々がこれから進む上で詮がなくなる。我々は天下に立って仕事をしている以上、面目というものを重んじている。この解決は諸君の信任があるかどうかで帰着するのである。我々の熱誠な希望を容れてくれれば、我々は及ぶだけの力を尽くして自分の面目を全したいという決心である。」と訴えた。 学生と政府の主張の仲裁を行うという立場をとったのではなかった。学生の復校問題と、大学昇格という政策問題は別問題であるとして、大学昇格という政策目的を実現するためには、自分達を信じることによって、無条件に復校するように訴えたのであった。 続いて高等商業学校の商議員の渋沢栄一も演壇に立ち、「明治7年、森有礼が提唱し、東京府も尽力して設立された。学校は一時東京府が管理するものになったが、明治15、6年に東京府会はこのような費用を負担できないとしてこの学校を廃校としようとしたところへ、自分らが存続を懇願した。政治、法律、軍事、医術の教育は具備してきたが、商工業に対する教育は甚だ冷淡である。このようなことでは未来の国家の富は覚束ない。商工業だけは無学でよいというのは大いなる過ちである。士農工商のうち商が各階級の一番下であるということはいつまでも踏襲されてはならない。このため、商業教育を大学たらしめようということで商業大学の声になったのである。」と、学校の歴史を振り返りながら学生の復学を促した。 学生の復校 三団体代表演説の終了後、同窓会代表の堀越善重郎から、先輩の方々の勧告、その同情に深く感謝の意を表明し、同窓会としての決議文を朗読して、三団体の勧告を受け入れて早く復校することを期待すると述べた。 学生は、三団体の代表者の演説の後、各級会を開催し、復校の議を討議した。教室に立てこもり、断じて復校に反対するものもいたが、大勢は同窓会の決議に従うことを決定し、翌日から復校登校することを決した。こうして5月24日、1300人の学生が復学し、1月余りにわたる紛擾は終わりを告げた。 申酉事件は、学生運動の走りであった。夏目漱石の日記には、「五月二十三日 高商生徒無条件復校と決まる。仲裁者は実業家也。高商生徒は実業家の云うことは聞くが、管理者たる文部省の云うことは聞かない。要するに彼等は主義でやるのでもなんでもない。あれが世間に出て、あの調子で浮薄な乱暴を働くのだから実業家はいい子分を持ったものである。明治の日本人は、深く現今の実業家に謝する所なかるべからず。」と記録していた。漱石は実業家に好感を持っていなかった。さらに、実業家が中心になって大きな社会問題を解決したことも意外であったに違いない。 東京高等商業学校の大学昇格 学生の復学の後、渋沢と中野は桂首相を訪ね、改めて高商専攻部廃止令を撤廃するように求めた。そして、政府は、事態の収束を図るため、6年間だけ専攻部を存続させるということを決定した。5月6日に省令が制定されてから50日後には、これを改変することになった。 6年後の大正3年になると高等商業学校の大学昇格問題が再燃した。帝国大学の商科や経済科と東京高等商業学校を合併して商科大学を設置するという案が提案されたが、再び教授、学生、財界などの反対が起こり、議論は先送りされた。 東京商業学校の大学昇格問題はこのように波乱を極めたが、大正8年に制定された新大学令に基づき、大正9年から東京高等商業学校の大学昇格が認められ、単科の東京商科大学が開設されることになった。一方の東京帝国大学も同時に経済学部を新設した。 大隈夫人の銅像問題 『早稲田大学百年史』は、「もし、それ『早稲田大学百年の歴史において最大の危機は』と問われたら、経営的、精神的、学問的など答える側の立場によって種々であろうが、一般の常識からすれば、大正六年の『早稲田騒動』であったとするのが、最大多数を占めるに違いない。」と記載している。 大正6年6月、早稲田大学学長天野為之の任期が8月末に満了にするのに際して、高田早苗前学長を学長に復帰させよう、という動きが起ったことをきっかけに、学内が高田派と天野派に分かれ、いわゆる「早稲田騒動」が起ったとされる。 天野派の中心人物として当局への反対派の中心となったのが、戦後、総理大臣となった石橋湛山であり、この事件を題材として『人生劇場』を執筆した尾崎士郎も退学を命じられた学生の一人である。 高田早苗は、明治39年から早稲田大学学長として君臨していたが、大正4年の大隈内閣改造とともに文部大臣として入閣した。そして、大隈内閣が総辞職した後も、憲政党の総務として政党活動でも中心的な役割を担っていた。 一方の天野為之は、「東洋経済新報社」で論説主幹として自由経済主義の論陣を張るかたわら、早稲田大学商学部の創設に尽力し、早稲田実業学校を創立してその校長に就任していた。 高田早苗が文部大臣に登用されると、後任の学長として天野為之が選任され、三元老と呼ばれた高田早苗は名誉学長に、坪内雄蔵(逍遥)は名誉教授に、市島謙吉は名誉理事となって大学経営の第一線から手を引いた形になった。 『人生劇場』の書き出しにあるように、天野学長時代、大学が大隈公爵夫人の銅像を大隈重信の銅像の横に建設するという計画を内々進めていたことが明るみになり、大学の若い教授や学生たちが、「これは公私を混交し、学の独立と自由を誇る早稲田大学の名を汚すものである。」と反発するという事件が起った。 大学当局はこの案を引込めたが、一方で、若い教授たちの間には、銅像問題そのものよりも、銅像問題に端を発して、大学運営の仕組みそのものが、「非立憲的」であるとの不満が高まった。 このような時、天野学長の任期が迫ってきたことから、高田早苗を学長に呼び戻そうという動きが起こった。 天野学長は、当期限りで学長を辞すことを正式に表明したものの、当時「東洋経済新報社」に勤めていた石橋湛山は、高田早苗の復帰を断固阻止して大学の改革を図るべきであると考えた。 両者の反目を憂慮し、7月、大隈総長は高田、天野及び坪内の3博士を招いて、円満に問題の解決図るように指示し、さらに、大隈は天野を招き、学長を辞して、以後は名誉学長として今後尽力してほしいと述べたが、天野は、総長の勧告を拒絶し、むしろ自分は大学の改革に専念したいと伝え、対立は一層高まった。 講堂の占拠 十分な調整はとれないまま、天野学長、田中穂積、塩沢昌貞両理事の任期が8月末に満了し、それ以降は、学長不在のまま、阪本三郎、田中穂積、塩沢昌貞、金子馬治、中島半次郎、安倍磯雄の新理事が共同で運営に当たることになった。 天野学長退任後、大学側は、不穏学生に退学処分を行い、永井柳太郎や理工科の機械科専任の教授らに辞職を勧告した。 このような大学側の動きに天野派の学生は反発を強め、石橋湛山や尾崎士郎は、9月11日夜、早稲田劇場で演説会を催し、数千人の学生の聴衆が集まった中で、高田早苗の再選を阻止し、大学から大隈家を解放するなどの決議を行うよう呼びかけ、「吾人は早稲田大学現理事を辞任せしめ、阪本三郎、市島謙吉、田中唯一郎の三氏が早稲田大学と関係を断つまで同盟休校す」と決議し、市島と田中理事に決議文を渡しに出た。 さらに、校歌を斉唱しながら講堂に移った学生たちは、深夜まで、代わる代わる演壇に立って熱弁を振るった。石橋を中心に「早稲田革新団」と標榜した天野派の学生はそのまま講堂を占拠した。石橋湛山には、ロシア革命の「ケレンスキー」とのあだ名がつけられた。 学生が講堂を占拠し、学生を集めて石橋らの演説会が開催されたが、登校の自由を失った中立派の教授団は、一派の人士及び学生がみだりに大学の校舎を占領し全校の授業を不可能にさせたのは大学の存立を危うくする暴挙であると認めるという宣言を出した。大学はこの日から授業を開始する予定であったが、10日間休校と決定した。 この事態を受けて田中穂積、安部磯雄、坪内雄蔵、市島謙吉等の現任理事、維持員は一切引責辞職することになった。 そして、夕刻、警視庁から正力松太郎監察官が革新団に会見し、「今回の行動は家宅侵入及び業務妨害を構成する。」と言い残して戻った。 この日も演説が開始されたが、最終的に石橋は「吾人は警察の圧迫を恐れるものではないが、講堂を明渡すのが至当と思う。」と述べて、理事の維持員辞任などの条件が満たされた以上、任意校舎を明渡すと決議して引き上げ、講堂の占拠は終了した。 なお、このとき石橋が引き上げた理由について、『湛山回想』には、「大隈邸における評定の結果、断然廃校に決するに至ったといわれ、真実であったかわからないが、真に廃校になってしまえば立場はない。我々は学校を改善しようとして戦っているのに、その運動が学校をつぶす結果を生んだのでは理非はともかく、学生にも校友にも世間にも申し訳がない。一ツ橋高商事件は、文部省は学生たちのストライキで惨敗したが、それは、官立学校は文部省の一部でその存廃を決し得ないからであったが、私学はその経営者が廃校と決すればこれを阻止する力はないことで無条件降伏を余儀なくされた。」、また、「警備に当たる学生に対して握り飯を出していたがその費用も捻出できなくなり内部崩壊しそうになっていたので、大学当局の持久戦に負けた。」と記している。 財界への調整の依頼 このように学園で大騒動が発生していたとき、大隈重信は、持病の胆石病が発病して瀕死の重態に陥っていた。そこで大隈は、病床に当時の財界の屈指の重鎮であり、親交の深かった渋沢栄一、中野武営、森村市左右衛門(ノリタケなどの創立者)、豊川良平(三菱財閥の重鎮)を枕元に招き、学園紛争の調停を依頼した。「我輩は今日まで泣き言と愚痴とを言ったことがなかったが、今度こそは困った。どうか援けてもらいたい」と述べ、解決に協力を依頼した。 そして、松平頼寿伯爵(本郷学園創立者)主催で早稲田大学の全国評議員会が開催され、全国から評議員が上京し、今後の大学運営の善後策、特に後任の維持員の選定について検討した。 9月の全国評議委員会において、鈴木寅彦、坪谷善四郎らの7名の維持員選考委員が決定された。また、教授会も7名の維持員選考委員を決定した。そして、坪谷ら委員が、渋沢事務所を訪問して、渋沢、森村、中野、豊川ら4人に会見し、維持員に就任するように依頼し、この四人も快諾した。 校規の改正によるガバナンスの復活 こうして、既に維持員である大隈信常、三枝守富に加え、新たに渋沢栄一、森村市左右衛門、中野武営、豊川良平の他、松平頼壽、平沼淑郎(騏一郎の兄で商科の教授)が新たな維持員として選出された。 大学の組織を改革する上で、大学の様々なステークホルダーや世の中が納得できるだけの権威と中立性を兼ね備えた維持員会の構成が求められ、そのために、財界を中心とした外部の実力者も登用して解決を図ろうとしたのである。 続いて、維持員会、教授会、評議委員会それぞれから校規改訂調査委員会(総計21名で委員長を渋沢、副委員長を中野、幹事を平沼)を設け、校規改定案の審議を重ねた。成案を得た後、早稲田大学臨時維持員会を経て、9月2日付けで、文部省から早稲田大学寄付行為の変更認可がおり、新たな校規が制定された。 新校規に基づき、有期維持員として、早速政爾、田中穂積ら14名のほか、功労者及び寄付者から松平頼壽、平沼淑郎らが選出された。 さらに、大隈重信は、終身維持員として、渋沢栄一、中野武営、高田早苗、坪内雄蔵と三枝守富を、創立者又はその家督相続人という立場から大隈信常を、終身維持員として任命した。これらの新しい維持員会が平沼淑郎を学長として選出し、大隈重信を改めて総長に選出し、一件は落着した。 紛争後、天野為之は自発的に早稲田学園との関係を断つことになったが、早稲田は、彼が創立以来の功労者であるということで、できるだけの待遇をすることになった。一方、高田は名誉学長の待遇を辞退し、12月の維持会において暴行学生の停学処分も解くことが決定された。 以上、明治末期から大正にかけて、当時の社会に大きな衝撃を与えた学園紛争の概略を紹介した。「辛酉事件」は、ビジネス人材教育のあり方について、そして、「早稲田騒動」は、私立大学のガバナンスのあり方について燃え上がった問題であった。そして、いずれも財界が紛争の収拾に大きな力を発揮した。 当時の財界は、このような社会的な課題を調整するだけの中立性、権威と信用をもっていた。特別の立法は必要とならなかった。 (注)『申酉事件史』、『早稲田大学百年史』、『渋沢栄一伝記資料』他参照。歴史事実及びその評価を含め、本稿は筆者の個人としての見解であることをお断りします。 |