『明治・大正の経済界昔話(7)』
- 公益事業の競争とその結末は -


在米日本国大使館
石井 裕晶

「官から民へ」というのは、現代の経済構造改革の大きな柱となっている。昭和60年代には国鉄、電電公社、専売公社の民営化が実現したが、近年は郵政事業などの民営化、さらには電力や通信市場における競争の導入も大きな課題となっている。今回は、鉄道や電力などでも活発な自由競争が行われていた時代の姿と公共との関わり、そして、その結末について紹介してみたい。

関西鉄道株式会社と東海道線の競争

関西鉄道(かんせいてつどう)は、明治時代、大阪と名古屋を連結し、三重県、滋賀県、奈良県を連結する関西の一大私鉄であり、鉄道史上、大阪と名古屋の間で、官設の東海道線と果敢な競争を行ったことで有名である。

江戸時代の基幹交通路の東海道は、四日市から、亀山、草津、大津、京都に向かい、「お伊勢参り」ブームによって、全国から伊勢神宮に参拝客が集まっていた。しかし、東海道線が、東海道を迂回して、名古屋から米原を通り、琵琶湖に沿って草津、京都に抜けることになったため、明治21年、三重県、滋賀県、京都府の地元の地元は共同で出資し、四日市経由で京都と名古屋を結ぶ関西鉄道株式会社を設立した。初代社長には「郵便の父」として有名な前島密を迎えた。

明治22年、官設の東海道線が新橋と神戸間を全線開通させたのに対し、関西鉄道は、次々に周辺の私鉄を買収し、明治23年に大阪(難波駅)と名古屋を連結し、名古屋と大阪の間で東海道本線と激しく乗客の争奪戦を行った。

明治33年、名古屋と大阪の湊町(難波駅)の往復割引運賃は、官設鉄道が1等6円86銭、2等4円、3等2円30銭に対して、関西鉄道は、1等4円、2等3円、3等2円と改定した。

官設鉄道は、これに対抗して、1等5円、2等3円、3等1円50銭に改訂した。さらに関西鉄道は、この1週間後、2等2円50銭、3等1円50銭に低減して対抗した。さらに、関西鉄道は、乗車すると「うちわ」や「手ぬぐい」のお土産をつけたり、参宮鉄道、南海鉄道などの接続する私鉄と共同して運賃を半額にした臨時列車を走らせたりした。臨時列車は、納涼、松茸刈、紅葉刈など、年末年始、旧正月、節分、観梅、観桜など時候にあわせて運行された。北海道移住者や夏季休業学生のための割引制度を導入するなど、競争を通じて様々な創意工夫とサービスの向上を行った。

明治36年に大阪で開催される第5回内国勧業博覧会を前に、両社は、競争区間の運賃割引を行わないこと、景品による客の誘引は行わない等を内容とする覚え書きを締結した上で、関西鉄道は、湊町駅、天王寺駅、臨時に設けた博覧会駅の各駅から名古屋駅に至る周遊乗車券である「回遊切符」を発売したり、博覧会開場に2箇所の案内所を置いて鉄道運輸に関する案内をさせたりするなどの積極的な集客努力を行った。そして、博覧会が閉会すると、関西鉄道は再度料金を引き下げる申請を行った。官設鉄道は、これに応じなかったため、関西鉄道は一方的に協定の破棄を行った。これに対抗して官設鉄道も運賃を引き下げた。

当時の関西鉄道の広告には、「当分の間 名古・愛知と大阪市内各駅との双方より 往復3等1円20銭、2等1円80銭、1等2円50銭、右切符御買求めの御方に 新鮮なる御弁当進呈」という記述がある。この弁当は、ちらし寿司または赤飯と松花堂弁当が漆塗りの重箱に入った豪華弁当であったという。

また、名古屋において東京の角力と関西の角力が合同興行を行い、次の興行地の大阪に行くのに、名古屋の力士は関西鉄道を利用し、関西鉄道は車両の外側にしめかざりをして楽隊までのせて大阪入りしたが、東京の力士は、関西鉄道に乗ったら帰りに東京に戻るのに官設鉄道に載せてもらえないと困るという理由から官設鉄道を利用したという逸話も残っている。

しかし、このような関西鉄道と官設鉄道の激烈な競争も、日露戦争が勃発すると、貨物価格が不安定になったり、運送業者が二派に分かれて物流が滞ったりするという問題が顕在化し、地元の経済界を代表する名古屋商工会議所も過当競争の弊害を訴えるようになり、最終的に、大阪府知事らが調停者となって、両社は、名古屋・大阪、名古屋・草津の競争区間の料金を同一にするなどの協定を締結し、歴史的な競争も収束に向かった。

鉄道国有化

日露戦争後の明治39年、西園寺公望内閣が鉄道事業の統一の観点から、鉄道国有化の方針を検討しはじめると、当時の東京商工会議所会頭の中野武営(関西鉄道や東京馬車鉄の経営にも参画)は、「事業を統一するのであれば民有合同を唱える。国有で官の経営で働く吏員は、皆一定の給料で仕事をしているが、その昇進は官制に拘束されて遅く、いかに事業が繁盛しても賞与は一ヶ月の俸給額を出ない。官吏であれば忙しいことはむしろ迷惑に感じる程である。いかなる事業でも熱心に働くことを望むためには、利益によって誘導することが最も良い。官営では特別に功績のある人物を登用することもできないし、鉄道改善に関係ある人物を良い方向に導くこともできない。民有合同の場合は、営業が繁盛すれば社員全体の利益が上がり社員に直接影響することになるので社員は熱心に働かざるを得なくなる。また、民有の場合は、多くの場合、株主、貨物の荷主、乗客という立場からたとえ独占形態でもその不便や不都合を攻撃、詰問する結果、会社としても、知らず知らずの内に鋭意、欠点を直そうとする努力を行うことになる。必要があれば日本銀行のように政府が一部を出資して、官民合同会社を設立すればよい。」と主張したが、このような説は多数の支持を得ることはなかった。

しかし、政府は、明治39年から10年間に、17の私設鉄道を買収することを決定した。その買収価格は、明治35年後半から38年前半期の6営業期間における、建設費に対する益金の平均割合を買収時の建設費に乗じ、これを5%で割り引くものとして、株主にその金額を5%利付国債によって交付した。このように当時の鉄道の買収価格が基本的に収益還元法に基づいて算出されたことは、当時、キャッシュフローに基づいた市場原理が徹底していたことを示している。

鉄道国有化の対象となった関西鉄道は、私鉄主義を貫くべく最後まで抵抗したが、最終的に明治40年に国に買収され、その果敢な歴史に幕を閉じた。

鉄道国有化以降、近年に至るまで久しく忘れ去られてしまったが、明治時代には、鉄道という公益的な事業にもかかわらず、競争により顧客本位で創意工夫に満ちた経営を行っていた関西鉄道の実績があったことは注目に値する。

その後、国有鉄道の時代が長く続いたが、日本国有鉄道は破綻し、昭和61年、国鉄は民営化され、国が株式の一部を保有する株式会社となった。明治の財界の見識であった「官民合同会社」に近い形態が約80年後になってようやく実現した。

東京馬車鉄道株式会社の経営改革

話は東京の私鉄に移る。銀座・日本橋・上野・浅草という東京市内の目抜き通りを循環する馬車鉄道は、銀座の煉瓦街とともに多くの錦絵に採り上げられるように文明開化を象徴した。

馬車鉄道が、市内交通手段として初めて利用されたのは、ニューヨーク(1836年)だが、我が国でも、明治13年、五代友厚の援助を受けて東京馬車鉄道株式会社が設立され、新橋から日本橋の区間で開業した。これは、我が国初めての「私鉄」ともいうべきものであった。

しかし、この会社が早々に武士の商法で失敗したのを見て、甲州出身の投資家の若尾逸平は、会社の株を買い占めた上、経営陣を総入れ替えし、事業刷新を図った。

新たな経営陣は、「現場主義」をモットーにして役員自らが毎日路線にたって運行状況を把握し、経営を改善していった。そして、飼養費など各種経費の節減、馬匹の耐用年数の延長、馬匹への投資の削減、軌道改修による道路修繕費の軽減、複線化による回転数の増大などを実現し、当初の株式配当が0・8%であったものが、明治30年には35%の配当を行うまで利益をあげる有数の会社に成長した。

馬車鉄道から電車鉄道へ

馬車鉄道では、馬糞が播かれ、衛生、美観、臭気などの問題があっただけではなく、大量輸送の手段としての限界から電気への動力の変更が不可欠になった。

明治23年に上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会では、東京電燈株式会社が輸入したスプレイグ式電車が試運転された。これは、アメリカ人のスプレイグがヴァージニア州リッチモンドで実用化させたものであった。これを見た多くの事業者は、これまで夢物語であった電車事業が現実のものになるとの希望を抱いた。

東京馬車鉄道の事業としての大成功や電車鉄道の技術的実現性を見て、東京馬車鉄(改進党系)も馬車から電車への動力変更の出願を行ったほか、東京電気鉄道(雨宮敬次郎)、東京自動鉄道(星享ら自由党系)など32の免許申請がなされた。しかし、政府と東京市は、電気鉄道に関する技術的な知見も乏しかっただけではなく、申請者に党派があったことから、免許付与の判断を先送りした。

小田原電気鉄道株式会社

東京市における電気鉄道の免許付与が遅れている中で、東京馬車鉄が目をつけたのが、電気鉄道への動力変更を計画していた小田原馬車鉄道であった。

江戸時代は、参勤交代などで箱根の関所から小田原までは街道として繁盛していたが、東海道線が開通し、寂れてしまっていた。

そこで地元は、馬車鉄道を敷設して観光客の呼びこみを図った。さらに、上野の博覧会で電車の実演を見て、会社は、電気鉄道への転換をもくろんだ。しかし、地元の株主だけからでは、必要資金を集めることは無理であった。

それに目をつけたのが、東京における電車事業の免許を出願をしていた東京馬車鉄であった。「小田原馬車鉄道の計画による電気鉄道を実現せしめ以って範例を帝都の近くに示し、当局をして速やかに東京馬車鉄道を電気事業に改善せしめる」と、小田原馬車鉄道の電化を実現し、その実績をもって電車への動力転換の認可の取り付けを促進しようと考えたのであった。

こうして、東京馬車鉄と東京電燈の関係者などが同社の株式を取得し、電化計画を実施した。明治33年、須雲川の上流で水力発電を行い、箱根湯元から小田原、酒匂を経て国府津に至る12・9キロメートルの単線架空式の鉄道が完成した。全国の電車鉄道としては、京都市電北野線、名古屋電気鉄道、大師電気鉄道(後の京浜急行)に続いて4番目、関東では2番目の開通となった。

その後、この小田原電気鉄道は、昭和3年に日本電力に買収された後、箱根登山鉄道として独立したが、戦後、小田急電鉄の子会社となった。もともと小田原電気鉄道は広軌であったので、狭軌の小田急との間で調整を行ない、昭和25年に箱根湯本までの乗り入れを実現し、ロマンスカーも乗り入れるようになった。

今日、箱根登山鉄道は、わずかな区間の中に身をひそめる路線ではあるが、巨大な東京市全体の電化を促す先兵として、歴史的に大きな役割を果たしたのである。

電車鉄道の認可

小田原電気鉄道が開通した後、政府も東京市内の電気鉄道の免許について結論を出さなければなくなった。

日清戦争後、自由党は第二次伊藤内閣と提携を宣言し、明治29年、板垣退助が内務大臣として入閣した。板垣は、私設鉄道の新設を許さなかった。電気鉄道は有利な事業であるので私設会社の独占を行わせるべきではない、市の事業としてその収益を市の経費に充てるべきである、市が事業を行うことにより独占の弊害を除き、料金を下げる利点があると主張した。

しかし、第二次松方内閣が発足し、改進党系の大隈重信が外務大臣として入閣すると、内務大臣樺山資紀は自由党を牽制するため、明治30年、東京馬車鉄道(改進党系)にその既存線内、他の会社には別の区間に路線変更をすれば許可を与えるという内達を与えた。

この内達で除外されてしまった自由党の利光鶴松(東京市会議員で小田急電鉄の創立者)は、東京市会を根回しし、「電気鉄道敷設の許可を市会に諮問するべき。」「東京市が電鉄を市有する。」との決議を採択させた。

一方、自由党系の星亨は、自由党と連携した第二次山県内閣から、「多くの出願を一つの会社に合併するのであれば直ぐに許可をする用意がある。」という約束をとりつけた上で、「東京市街鉄道株式会社」を設立し、自由党系の多くの出願を1本化させると同時に、一転、東京市会に私営を認めさせた。

このように、事業の許認可に関して国政と市政の双方に及ぶ政治的な駆け引きが行われた。戦前の二大政党制の中で、会社に政治的な色がつくと、経済問題が政治に巻き込まれてしまう可能性があったことを示している。

最終的に、数多くあった電車鉄道の出願は、「東京馬車鉄」、「東京市街鉄道」と「東京電気鉄道」(日本郵船系)の3社に集約された。そして、明治30年、東京電気鉄道は、政治的な争いや他社との路線の重複を避けたことから、他社に先んじて一部(渋谷から馬込、広尾まで)の認可を得た。

そして、明治33年、東京市街鉄道と東京馬車鉄が電車事業の認可を受けた。

株主総会の混乱

このように、政治的に紆余曲折を経て、電車への免許が与えられたものの、景気が後退し、東京市街鉄道への資本金払込が難しくなった。一方の馬車鉄の後身である東京電車鉄道も、周辺部を東京市街鉄道が占めると経営上不利であった。そこで両社は交渉を行い、合併の合意をした。

しかし、当初合併に賛成していた「東京市街鉄道」の大株主の雨宮敬次郎は、経営からはずされることを危惧し、合併により「乗車賃3銭一律制」が実施できないなどの意見を発表し、猛然と合併反対運動をはじめ、中間株主や市民に訴えた。

緊迫した中で、明治36年7月、東京電車鉄道株式会社と東京市街鉄道株式会社の双方で、合併の議案を審議する株主総会が開催された。

東京電車鉄道の総会では、「おまえのおかげで損をしたことがある。」と大声で役員をどなる株主もおり多少は混乱したが、予定どおり合併を決定した。

一方、東京市街鉄道株式会社の総会では、雨宮らの非合併派が三多摩の壮士を株主と仕立てて会場正面に配置し、委任状は当日限りであるので、総会を夜中の午後12時まで引き延ばして無効にしようという戦略をとった。

内外に数十名の警官が出張し騒然とした中で株主総会が開催されたが、合併賛成派と反対派で怒声罵声の発せられる展開となった。非合併派は、委任状に怪しいもがあるので、委任状の捺印と株主名簿の照合をするべきであると主張して、丹念に確認することに時間を費やした。そして、深夜12時に達すると雨宮が「本日の総会は流会とします。」と宣言した。しかし、そこに間髪入れず合併推進派の藤山雷太が介入して議長席にのぼり、「継続会を開きます。」と宣言して議事を続行し、翌朝の午前3時に合併の決議を行った。

このような両社の総会の決定を受けて、東京電車鉄道と東京市街鉄道の連名で内務省に合併認可の申請を提出したが、非合併派は東京区裁判所宛てに無効の仮処分の申請を行った。最終的に内務省は「出願軌道条例に基づく特許及び命令承認の件聞き届け難い。」と判断し、両社の合併を認めず、合併は不成立となった。

その結果、東京市内を電気軌道が鼎立することになった。

東京電車鉄道は、品川と新橋の区間の工事を竣工し、明治36年8月に運行を開始した。これが東京における初めての架空複線式の営業電車であった。これが東京市の路面電車の始まりであり、「チンチン電車」との愛称でその後の東京市内の基幹的交通手段となった。京都市に遅れること8年であった。翌年には、東京市街鉄道と東京電気鉄道も明治37年には営業を開始し、東京から馬車鉄道は姿を消した。

東京鉄道会社の設立と市有化

全線開通した時、3社の運賃は、それぞれ合併騒動の副産物で各社3銭均一となっていたが、3銭均一では経営が困難であった。そこで、雨宮が引退した後、三電鉄が共通5銭均一運賃制の認可申請を行った。そして、東京市会は4銭共通均一制への変更を決議した。

しかし、日露戦争の後の物価騰貴などで国民の鬱憤がたまっていたため、市政記者会が反対決議をし、区の有志や区会議員も反対決議や様々な電車賃値上げ反対政談会を開催した。日本社会党もこれに反対した。反対デモも発生し、電車への投石や焼き討ち、交番、市庁、会社を襲う暴動にまで発生した。そこで、原敬内務大臣は治安警察法を適用し、軍隊や騎馬巡査によりこれを鎮圧するという事態となった。ポーツマス講和条約反対の日比谷焼き討ち事件に次ぐ民衆暴動の発生であった。このような事態を見て政府は運賃値上げの認可申請を脚下した。

しかし、各社は、再度、三社が合併することを条件に再度値上げの申請を行い、4銭への値上げが認可された。この認可についても再び市民の暴動が起こったが、明治39年、最終的に三社は合併して「東京鉄道株式会社」を設立した。

運賃値上げ問題などを通し、市民の間には市有化を求める声が大きくなっていった。さらに、不況が深刻化して東京鉄道の株価が下がると株主の間にも市有化を支持するものが出てきた。

合併後の東京鉄道の経営者であり、同時に東京市会議員であった利光鶴松が根回しし、東京市会は満場一致で市有化を可決した。政府の後藤新平逓信大臣は東京鉄道の市有化を認め、最終的に明治44年7月に尾崎行雄東京市長が東京鉄道株式会社を買収し、東京市電気局(現在の「東京都交通局」の前身)となり、果敢な私鉄の時代に終止符が打たれた。

電灯問題の発生

最後に、電車事業と密接に関連する電気事業の展開に目を向けてみたい。

我が国では明治11年、工部大学校において初めて電灯が点火された後、明治19年、東京電燈株式会社(東電)が設立され、電気事業が始まった。この東電は、次々に電灯会社を買収し、供給を拡大した。

一方、明治39年に三社合併によって設立された東京鉄道(東鉄)は、電車の動力として発電事業も行っていたので、新たに電燈供給事業に参入し、「百万灯計画」という供給拡大計画を標榜して積極的営業を行っていった。

明治44年に東京市が東鉄を買収した後は、発電事業も引き継いだ市電気局と東電がそのまま競争することになった。さらに、同年、日本電燈株式会社(日電)も参入して、電力史上有名な、東電、東京市電、日電の猛烈な競争が始まり、料金引き下げなどにより激烈な需要家の争奪戦を行った。一需要家内に三電が別々の電灯を供給したり、同じ道路で片側がそれぞれ別の電力会社が供給したりするということもあった。

さらに、市電気局は、鬼怒川水電から1万キロワットの送電を受けると料金引き下げを実施した。日電は一灯50銭として点火から3ヶ月は無料にするという計画まで立てたが、これは逓信省の認可を得られなかった。

東京市は、百万灯計画を引き継ぐとともに、電車未整備線の促成の申請を行った。しかし、政府はこれらの計画が市の財政上過大であるとの理由で認めなかったため、尾崎市長は辞任に追い込まれた。

市営統一の失敗

激しい競争によって東京の三社は経営の困難と競争の弊害を自覚し始め、大正2年、東電と日電が合併交渉をはじめた。しかし、このことが漏れると、「合併は独占の弊害により電灯料金の引き上げにつながる。」として、マスコミや市民団体から激しい反対運動が巻き起こった。

尾崎市長を継いだ阪谷芳郎市長は、電力料金引き下げという市民の要請と、自ら行う電力事業の経営安定という課題の間に挟まれた。そこで、料金統一を図るため、灯数の争奪を中止し、電燈需要家の切り替えの際には必ず一方に予告をなすなどして一方の電灯料金不払者には他方はその申込みに応じないことなどについて、他2社と申し合わせを行わせたが、実効性はなかった。

そこで、阪谷市長は、市が市債を発行して資金を調達し、東電と日電を買収することによって電力の統一を図ろうとした。しかし、東電との間で買収価格などの条件が折り合わず調整は失敗した。株主を控えた民間事業者は、決して安易には買収に応じなかった。そして、電灯統一を実現できなかった責任をとって市長は辞職した。尾崎市長は百万灯計画で倒れ、阪谷市長は三電協定問題で倒れる結果となった。

電車料金の値上げ

当時、電車事業と電灯事業は同一会計で経理され、運賃が凍結され赤字になっていた電車部門の赤字を電灯部門で埋めあわせる構造となっていた。そこで、新たに就任した奥田義人市長(後の中央大学創立者)は、電車料金問題の解決なしに電灯料金を引き下げることには限界があると認識し、まずは電車料金の引き上げを狙った。

一般に、公営にすれば公共料金を抑えることができると考えられがちであるが、合理的な料金を設定できなければ、事業が赤字になる。「公共」にマジックはない。

奥田市長は、大正4年、市会に対して、@普通電車料金をそのままとして、割引券、軍人券等の全廃を図る、A電車料金を値上げして、学生・労働者、下士官以下の軍人に割引電車賃等を設定する、という二つの案を提案し、議論を喚起した。

郊外の町村長や区部でも芝、浅草、神田、本郷などの区が激しい反対をしたが、市会は後者の案を妥当とし、通運賃が4銭から5銭に引き上げられ、通学回数券が新設された。

電灯問題の解決

続いて、奥田市長は、電灯の統一問題に着手した。奥田は、東電と日電と協議を重ね、大正5年の市参事会に、@新需要取得区域料金協定案(新規事業の申し込みを行う地域を確定し料金等の条件を統一する。)、A市営統一案、B市電貸下民営統一案(市電気事業の全部を民設会社に貸し付け、東電と日電の両事業とともに合同統一して民業として経営する。)という三つの案を提案した。

東電と日電及び三電が互いに営業区域を定めることには異論はなかった。市営の実施も、私有による統一もいずれも難しいことから、電気供給区域と料金その他の供給条件についての協定を行う方向で調整がなされた。「それぞれの電力供給者が、各供給区域中、新たな需要に応ずる区域を区画して、電気料金及びその他の条件は同一とする。もし、いずれかの事業者がこの契約に反して料金を引き下げたりした場合にはその場所一ヶ所ごとに違約金をそれぞれの事業者に支払うことにし、この協約の目的を達成するために委員を選任する。」という内容であった。

奥田は、市会対策だけではなく、市内15区の区会をはじめ、各区の町内会や商業組合に出かけて自ら直接市民と対話した。精細、的確な資料を用い、低姿勢で、「一日遅れれば一日の市民の損失である。」等、丁寧に説明し理解を求めたという。

最終的に市会もこの案を支持し、この「三電協定」によって電気料金の統一が行われた。その後、大正8年の春、日電は東電に合併し事実上二電協定となったが協定は昭和2年まで存続した。

これにより、長い間懸案となっていた問題となった需要の争奪戦も終止符が打たれることになった。既に確保した区域以外の新たな区域については競争が行われたが一定の秩序は維持されることになった。

その後も全国で最高850社にいたるまで電力会社が設立され、激しい競争が行われたが、昭和恐慌を経て事業者の合併・吸収が進んだ。そして、戦時体制が強化される中で、昭和14年の日本発送電株式会社が設立され、昭和16年に配電会社が9つに統合され、発送と配電の分離の体制が実現した。

戦後は、全国を9社に分け、それぞれが発送・配電を行う9電力体制となり、国が電気事業法に基づき全国一元で規制する体制となり、現在に至っている。

(注)歴史事実及びその評価を含め、本稿は筆者の個人としての見解であることをお断りします。