『アメリカ・ブック・ビジネスの場「Book Expo」』

デューイ・バレンタイン法律事務所
菱川 摩貴

「それでは、グリーンスパン前米連邦準備理事会(FRB)議長です」。会場に詰めかけた観衆から一斉に拍手が巻き起こった。6月1日、ニューヨークで開催された「ブック・エキスポ(Book Expo)2007」での出来事だ。

「ブック・エキスポ」は、毎年初夏、3日間にわたって開催される米国出版業界最大の書籍展示会である。今年は6月1日から3日まで、ニューヨークのコンベンションセンターで開催された。展示会では、各出版社が出展ブースを構え、書店員、図書館員などの「バイヤー」に、その年の秋から冬にかけて発売する新刊書の売り込みに励む。書籍展示会というと、日本で毎年行われる「国際ブックフェア」を連想される方もいるかもしれない。しかし日本のブックフェアが一般読者も参加するお祭り的なイベントにとどまるのに対し、アメリカの「Book Expo」は、あくまで業界関係者の商談の場。マスコミ関係者を除き、一般読者は一切立ち入り禁止である。

書店員たちのお楽しみのひとつは、会場で作家から直接話を聞いたり、サインがもらえることだ。今年の基調講演者は、冒頭で触れたグリーンスパン前FRB議長。同氏は、9月17日発売予定の回顧録『The Age of Turbulence』の売り込みに訪れた。インタビュー形式の講演で、質問役を務めたのは同氏の妻、アンドリア・ミッチェル米NBC局記者である。夫婦間の質疑応答という和やかな雰囲気の中で、グリーンスパン氏は「(事実を)隠すようなことはしてません。サプライズがたくさんありますよ」と自著をアピール。18年間のFRB議長時代に接した歴代の大統領について、例えば「レーガン大統領は、世間で思われている以上に思慮深い人。政策の詳細は知りたがらなかったけどね。例えば大統領専用機で隣通しになったときも…」などといった逸話を次々と披露。9.11のテロ事件直後の国内経済の回復ぶりにも触れ、「米経済の柔軟性を象徴した」と解釈してみせた。版元の米大手出版社ペンギン・プレスは、推定850万ドルのアドバンス料(前払契約金)を支払い、同回顧録出版を勝ち取ったといわれる。本書のおもしろさを直接グリーンスパン氏に語らせることで、書店員たちの士気を高め、大ベストセラーにして高額のアドバンス費用を回収したい−。版元の思惑通りにいくかどうかは、秋までのお楽しみだ。

回顧録として最高のアドバンス料(1,200万ドル)で話題を呼んだビル・クリントン前米大統領の『マイライフ』も、売込みのキックオフは、3年前に開催された「ブック・エキスポ2004」だった。リベラルな民主党員が多い米出版界において、クリントン前大統領は「アイドル」のような存在だ。「いい本かどうかはわかりませんが、グッド・ストーリーだと思います。自分の人生を通し、アメリカの歴史が見えるように工夫しました」と売り込む前大統領に、会場を埋め尽くした数千人の書店員たちは拍手と大歓声で応えた。

作家との交流のほか、書店員たちが「Book Expo」で楽しみにしているのが、刊行前のゲラ本だ。例年、開場時間午前9時近くになると、会場前にバイヤー・参加者の長い列ができる。開場と共に、参加者は一斉にダッシュし、各出展ブースに用意されたゲラ本を片っ端から広いまくるのだ。午前11時ごろには、膨大なゲラ本を抱えたバイヤーたちが疲れた表情でのそのそと会場を歩き回っている。

ゲラ本は、市販の書籍と一見変わらない。だがよく見ると明らかに異なる点に気づく。ゲラ本の多くは校正終了前とあって、つづりミスや校閲のあとが残っているのだ。例えば今年、私が手にしたゲラ本に、ジャーナリスト、ポーラ・ケイメン著『Finding Iris Chang』がある。Iris Chang(アイリス・チャン)は、1997年『ザ・レイプ・オブ・南京』を刊行、南京虐殺事件を取り上げ、日本で物議をかもし出したアジア系米国女性作家だ。ノンフィクション・ライターとして成功、理解ある夫と一人息子に恵まれていたにもかかわらず、2004年11月、36歳の若さで突然自殺。『Finding Iris Chang』は、他殺説まで流布した彼女の死の謎を、友人の著者が解き明かしていく内容だ。ライターとして扱った題材の重さ、生まれつき完璧主義の性格、学者として成功した両親を持つことなど、さまざまな要因が絡み、徐々に精神を病んでいった女性ライターの姿が、本書から浮かび上がってくる。ミステリー本の如く、ぐいぐい読ませる内容だったが、ゲラ本とあって、例えば「ここに段落スペースを再挿入」といった校閲文面や、つづりミス、セミコロン・句読点等の不自然な挿入が散見した。それでもこうしたゲラ本を出版社が配布するのは、一刻でも早くバイヤーに読ませ、気に入ってもらい、発売前にできるだけ多くの部数注文をとりつけようとする狙いがあるだ。

さらにゲラ本と市販本とのおおきな違いは、ゲラ本の裏表紙に、発売予定日から、作家のメディア出演予定、書店ツアー予定、書評や広告が出る新聞・雑誌名、販促総費用、映画化の可能性など、出版社の具体的な宣伝販促プランがリストされている点だ。前述の『Finding Iris Chang』も、発売予定日(2007年11月)のほか、初版部数(6万部)、広告媒体(『アトランティック』『ニューヨーク・タイムズ』等)、著者が売り込みに訪れる都市(サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨーク)などの情報が裏表紙にリストされていた。出版社は、具体的なマーケティングプランを書店員たちに見せることで、新刊に対する版元の意気込みを示す。発売前に注文を取り、書店との共同販促活動を持ち込み易くする効果が期待できるからだ。

今年のゲラ本では、「イスラム」「テロリスト」「地球環境問題」をテーマにした本が目に付いた。中でも「話題になりますよ」と手渡されたのが、ニュート・ギングリッチ前米下院議長が自然保護論者と共著した『A Contract with the Earth』だ。1994年米中間選挙の共和党公約「Contract with America」をもじった同書では、その公約作成に指導力を発揮したといわれるギングリッチ氏が、環境問題の処方箋を説く。「保守派のギングリッチ氏に環境問題なんて意外な組み合わせでしょう」と売り込むのは、版元である地元ワシントンDCのジョンズ・ホプキンズ大学出版社だ。本書にかける同出版社の意気込みは大きい。売込みに外部の専門パブリシストを雇い、11月発売に向けて、全米規模の宣伝販促キャンペーンを計画している。科学系専門書が多く、そのほとんどが初版数千部という同出版社にとって、本書の初版部数5万部は大きな賭けだ。大手出版社に比べ資金力で劣る大学出版社が、ゲラ本約千部を出版、無料配布することも珍しい。2008年大統領選出馬も噂されるギングリッチ氏である。環境本でも大手出版社から出版できたと思うが、「ギングリッチ氏本人が、シリアスに取り上げてもらうため、大学出版社からの出版を希望した」(同出版社の営業担当者)そうだ。「私もワシントンDCから来ているの。がんばってね」。ゲラ本を懸命に配布する同出版社関係者に、書店員からこんな声がかけられていた。

ところで書店員でもない私が、一般読者の入場が禁止されている「Book Expo」に参加できているか、不思議に思われる方もいるかもしれない。実はここ10年間にわたって、休日・休暇を利用しながら、フリーランスの立場でアメリカのブック・ビジネスを取材し、日本の業界紙・一般紙に寄稿してきた。東京で新聞記者だった時代、日本の出版業界を取材していた“名残”である。制度的、慣習的違いが大きい日米の出版業界でも、似ている点は多い。例えば米業界で最近挙げられる問題として、ハリーポッターなど超ベストセラーに売上を依存する構造や高い返品率があるが、これは日本の業界にも共通する点だ。何かお互いの業界から学べる点はないか。米書籍業界からアメリカの何がみえるか。そんな問題意識から米国ブック・ビジネスを取材してきた。少しずつ包み重ねた取材の結果を、現在本にする作業に取り組んでいる。遅々として進まない執筆作業だが、なんとか書き終え、発売日が決まったら、私もアメリカの作家を見習い、売り込みに励む予定だ。そのときはご協力お願いします。

「ブック・エキスポ2007」の会場には、書店員たちの接待にアニメ番組の主人公、「ドラ」(左)と「ディエゴ」(右)も登場。著者も一緒に「ハイ、チーズ」。