『明治・大正の経済界昔話(8)』
- 独創的研究開発促進のためには -


在米日本国大使館
石井 裕晶

今後の我が国がグローバル競争の中で勝ち抜いていくためには基礎技術開発の促進が不可欠であり、官民それぞれ技術開発に注力すべきである、また、今後の経済フロンテイアを開発して経済を活性化していくためには、ベンチャー企業を次々と立ち上げる必要があると言われる一方、政府も企業も巨額の研究費を費やしながら、それがどれだけ経済的効果を生み出しているのかよく評価すべき、という声もある。

これらの問題意識を考える上で、今回は、我が国の研究開発をリードし、湯川秀樹などノーベル賞受賞者も輩出した戦前の財団法人理化学研究所の実績についてご紹介したい。

高峰譲吉の「精養軒演説」

明治維新以降、我が国は、欧米の科学や技術を輸入するだけで、国内において独自の基礎研究が行なわれるような段階には達していなかった。

第一次世界大戦が始まる頃まで日本における理科系の研究所は、東京帝国大学(明治10年設立)、京都帝国大学(明治30年設立)、東北帝国大学(明治44年設立)の理科大学と、公立の東京工業試験場(明治33年設立)、逓信省電気試験場(明治24年設立)及び鉄道省大臣官房研究所(大正2年)を数えるのに過ぎなかった。しかもこれらの大学においても、大学の予算には研究費なるものはほとんど計上されておらず学生数に応じて各教室に割り当てられた実験費があり、その一部を内々で研究のために使用するに過ぎなかった。

このような時代背景の中で、大正2年3月、アドレナリンの結晶化や消化剤タカジアスターゼの研究で有名であった高峰譲吉が、米国から一時帰国し、渋沢栄一を訪ね、「国民科学研究所」の設立の提案を行った。高峰の話を聞いた渋沢は、直ちに山本達雄農商務大臣や実業家など朝野の名士を集め、高峰の講演会を行った。そこで高峰は次の旨の演説を行った。

明治の御代の方針に遡ると、広く知識を世界に求める趣旨で文物制度、技芸百工すべて先進国の長を取って我短を補い、もって国家の進歩を図るという方針であった。その結果として東洋の一隅に僻在した小日本が今やあたかも東洋の中心に移転したように世界列強の班に列することになった。しかし、大正の御代になって、この明治の大発展を将来益々発展させていかなければならない。

私の考えでは、これは事業の発達に重きを置かなければならない。しかし、従来本邦に発達している事業を見ると知識を世界に求める明治の方針に基づいて、新事業はほとんど全てヨーロッパから教わってきた。またはヨーロッパの模倣をしている。

いかにして日本固有の、少なくとも東洋固有の材料もしくは事業を研究し、発明しなければ、本邦の産物を世界に広く売り広めて世界の富を本邦に吸収することは覚束ないと思われる。それ故に何か新に有益な発明研究をしなければならないと思う。

今日の発明研究は、学理に基礎を置いて、それが経済上に利あるものでなければならない。この発明研究は、基礎から積みあがる研究の事業から始めるより他にないだろう。「急がば回れ」というように、最も気長く永遠の大成を期して基礎から積みあがる他ない。その大成を期するには研究に便宜を有さなければならないことから私は研究所の設立を必要としたゆえんである。

ドイツがフランスとの戦争後、隆々と今日の富を有するに至ったのは化学工業の発達によるものである。廉価な石炭タールを集めこれに学理を応用して種々の染料、顔料、または貴重な幾多の薬品その他化学品を製出し世界に販売している。アメリカでは、カーネギーが千万ドルの基本金を投じて、営利的にはできない研究をしているが、各部門において到底尋常では得られない根本の研究をしている。

本邦においては、概して工業はなお幼稚であり、特に何かこのような方法を立てて進歩を図らない限りただ自然のままに任せておいては、世界列強の間に立ち、一等国の地位を保つことは甚だおぼつかない。

そこで私は研究所を起こす案を立てた。最新型の軍艦ドレッドノート型一艘の価格にすぎない。しかし、軍艦は、進水式から腐朽して10年から15年の後には廃艦しなければならない。もしその資金を研究所の設立に費やせば、軍艦が廃艦となる時期には必ず二、三の世界的大発明が成立して富みを起こす基礎が立つのである。

企業者その他の人で学者に研究してもらいたくても研究所がない、あっても指導してもらう人がいないという場合に研究費を負担して委託されれば研究所がよろこんでその委託に応じるという道もあるだろう。

一方、材料の取調べに従事し、日本だけではなく東洋にその材料を求める組織にして、地質家、植物学者、地理学者等種々経験のある人々を一体に組んで、海外に材料調査隊を派遣するのも有用であろう。

いつまでも模倣のみではならぬ。何時か知らないが新たな研究をはじめなければならぬ。始めた以上は、一日も早く始めれば一日も早く結果を得られる次第である。どうか方法を設けて先々この大正の御代の進歩に基礎を一つ立てるようにご尽力を願いたい。

この「軍艦一艘する予算を研究に回せばいくつかの世界的大発明が成立して国の富の基礎ができる。」という演説が有名な「精養軒演説」であり、我が国の産業発展のために基礎研究が重要であることを初めて説いたものであった。

この演説の中で触れられているロックフェラー研究所で、野口英世は、黄熱病や梅毒の研究で世界的な名声を上げていた。現在でもロックフェラー研究所、カーネギー研究所、マックスプランク研究所(ドイツ皇帝が設立支援したカイザー・ウイルヘルム研究所の後身)は、ノーベル賞の受賞者を多数輩出するなど高いレベルの研究を行っている。

官民一体の提言

高峰の講演を受けて、渋沢栄一や中野武営東京商工会議所会頭ら財界の有志は、「国民科学研究所設立趣意書」を発表した。有志から寄付を募り、無機及び物理化学、有機及び生物化学、設計及び工場試験部の三部に分けて、研究だけではなく発明の奨励をするという構想であった。

そして、大正3年3月、財界は、池田菊苗や鈴木梅太郎ら学者の共同で、「化学研究所設置の建議」を行った。さらに、大正3年4月に大隈重信内閣が発足すると、大隈は、研究所設立計画に賛同し、関係者を早稲田の私邸に招き、官民協力による大規模な化学研究所設立を提案した。

その直後の8月、第一次世界大戦が勃発し我が国が参戦すると、医薬品や染料などの工業原料などの化学品の輸入が途絶えてしまったことから、理化学研究の緊要性について問題意識が高まった。ドイツからの染料の輸入が途絶え、日本からの主力輸出商品であった繊維製品の色が薄くなるほどであった。

そこで政府も化学工業調査会という審議会を開催して検討を行い、大正3年12月「化学研究所設置ニ関スル建議」を行い、財界もこれに呼応し、官民一体となった方針で研究所を設立することで意見が一致した。これらを踏まえ、大正5年2月、大隈内閣は、「理化学研究所に対する補助金の交付に関する法案」を成立させ、政府としても必要な支援を行うことを決定した。

財団の設立

政府が補助金を拠出することを決めた以上、民間でも寄付金を集め、早急に財団を設立しなければならなかった。

大隈総理も民間の寄付を促すため、「将来、全ての製造業は理化学の研究から導かれるのである。現代の生産業の大部分は学術から導かれていると言ってよろしい。金が少ないから帝国大学の研究所は十分な力をもっていない。政府においても時代の必要に応ずる最も大切なことと考えて議会に案を提出した。貴衆両院では反対がなく協賛をした次第である。一日も早く成り立つことが目下日本の工業の上で最大急務である。どうかこの方に向かって多大の力を注ぐことを切に希望する。」と訴えた。

そして、趣旨に賛同した井上準之助(横浜正金銀行)、豊川良平(三菱)、和田豊治(富士紡)、団琢磨(三井)、高松豊吉(東京工業試験場)、安田善三郎(安田)、馬越恭平(日本麦酒)、近藤廉平(日本郵船)、久原房之助、鈴木馬左也(住友)、川西清兵衛(日本毛織)など、経済界を代表する実業人と大学教授が募金集めの中心となった。

理化学研究所の事業と産業界

理化学研究所は単に学術上の基礎研究を行うために設立された研究所ではなく、基礎研究の応用により工業や一般の産業を発展に直接貢献することを目的として設立されたものであった。

特に、実業界からの寄付を求めて設立し、研究を行っていくため、実業界が寄付を行うだけのインセンテイブをもつように研究所の事業内容は実業界にとって魅力的なものとする必要があり、次のような事業計画を発表した。

一 研究の依頼応諾
特殊の事項について研究の依頼に応じる。依頼者の利益を保護するため絶対に秘密を守る。
二 研究者の養成
大学または専門学校卒業で優秀なものを収容して研究者の養成を行なったり、所員を海外に派遣してその能力を発揮させる。
三 研究者の供給
諸会社、工場など営業上必要な研究機関を設置する場合に、必要があれば適当な研究者の供給を行う。
四 自由研究の許可
適当な発明考案を有し、相当な学力のあるものが研究所で研究を行うことを許可することができることとし、研究所員に準じて設備の使用、学術の相談に十分の便利と助力を与える。
五 研究の表彰及び補助、発明考案の募集
研究を奨励し、発明の達成を図るため、卓越した研究に賞を与えて表彰したり補助金を与えてその完成を期し、または懸賞を与えて発明考案を募集する。
六 工業物資の調査
工業物資の自給を図り、または新工業の発展に資するため研究所は各専門家によって調査団を組織し、内外に派遣する。
七 工業の独立、移植及び改良
欧州戦乱によって影響を受け新たに我が国に興った諸工業の中でその基礎が確立していないものについての研究を行ってその独立を速やかにさせる。 
八 各試験場との連絡
全国に設置されている官公立各種試験所の学理上の協議や研究の依頼に応じて完全な連絡を保ちつつ産業の発展に尽くす。
九 研究成績の公表と談話会の開催
研究成績を公表するため、随時報告書を刊行し、講演会を行う。研究所員は常に実業家と相接触することに注意し、学理上の知識と実際上の知識との交換に努めるように談話会その他の計画を実施する。
一般に基礎研究は大学や公的機関が行えばよいと考えられていたため、理化学研究所の基礎研究がいかに実業界に役に立つか具体的に示し、実際に研究成果などをきちんと実業界に還元されることが説明できなければ、実業界が寄付を行うインセンテイブは働かなかった。こうして、理化学研究所は、発足の前から、「研究者のための研究」ではなく「実業界のための基礎研究」を実施するという使命感を植え付けられた。

財団法人理化学研究所の発足

理化学研究所は、太正6年3月に三井、岩崎両家、さらに、大正天皇が特別に百万円の下賜を行うことを決定した。必要な財産の基礎が確立し、財団法人理化学研究所としての設立が許可された。高峰譲吉が「精養軒演説」を行ってから約4後のことであった。

初代総裁には、伏見宮貞愛親王に任命され、渋沢栄一と菊地大麓(元帝大総長)が副総裁とし、山川健次郎(元帝大総長)が顧問に就任した。理事10名のうち、官界から農商務次官と文部次官、東京工業試験所長の3名、財界から5名、学界から2名であり、監事は財界から選出された。

このように理化学研究所の運営については、財界を中心に、官界、学会のそれぞれの代表がそれぞれの立場が活動を監視し、アドバイスする役割をち、産学官の連携が密接にとれるような工夫がされた。

財界による募金の推進

財団は設立され、我が国は第一次世界大戦のバブルによって未曾有の好況に恵まれていたが、募金は必ずしも計画通りには順調に進まなかった。

そこで、募金活動の中心であった中野武営会頭は、大正7年10月、「古茶碗一個に万金投じる人はあっても,国家事業に対してわずかの出金もこれを惜しむとはいささか嘆じざるをえない。自分の儲けた金で勝手な振る舞いをするのは敢えて差し支えないようであるが、国家大局の上から考えてもらわなければならぬ。国家的事業に尽瘁することができないまでも、せめてはこの際かかる驕奢の振る舞いは遠慮してもらいたいものである。」と絶叫し、バブル経済の中で無駄使いするような資金があるのなら、大戦バブル崩壊後の厳しい経済情勢や国際情勢に対処するための工業発展のための投資として、企業は、研究所の設立に積極的に貢献すべきであると訴えた。

大河内正敏所長による経営刷新

第一次世界大戦が終了した後、予想されたように日本経済は深い不況に襲われ、理化学研究所への寄付もストップするなどにより財団は破綻の危機に直面した。

そこで、新たな所長として専任された大河内正敏は、国庫補助金にも寄付金にも限界があると判断し、研究の成果をベンチャー企業によって次々に産業化し、得られた収益によって研究費を捻出していく方針を立てた。

鈴木梅太郎研究室で考案された「ビタミンA製造法」などで大成功を収め、これに勢いを得て、発明を工業化する機構として理化学興業株式会社を設立した。この会社の発行する3万株のうち、5千株は理化学研究所が所有し、その配当は研究費に充てられた。

ある応用研究の成果がでると、研究室内で試作を行い、工業化に目途の立ったものについては、研究所内の製造設備によって生産するか、他への製造委託す、製品の量産が必要になると理化学興業に製造を移管するか、研究所から独立して会社を設立した。

大河内は、技術のもつ実用化可能性について、卓越した「目利き能力」をもっており、それを現実に実用化するだけの経営的手腕を持っていた。そして、関係の機材を製造販売したり、関係企業を買収して収益を上げていった。

さらに、清酒代用飲料製造法の発明が今日の合成酒の源となり、特許陽画感光紙は理研感光紙として現在のリコーとなっている。特に、金属マグネシウムとピストンリングの製作は大きな成功を収めた。

理化学興業株式会社、理研マグネシウム、理研ピストンリング、理研閃光板株式会社、理研特殊鉄鋼株式会社、理研電線株式会社、理研ウルトラジン光業所、理研紡績株式会社、理研コランダム株式会社、理研感光紙株式会社、理研軽合金株式会社、理研酒販株式会社、大和醸造株式会社、理研合成酒、大日本種類醸造株式会社、日満マグネシウム株式会社、理研アルマイト株式会社、日本マグネサイト化学工業株式会社、理研保温材工業株式会社、理研鋼材株式会社、理研圧延工業株式会社、富国工業株式会社、株式会社三興商会、理研光器株式会社、比角自転車株式会社、株式会社理研チャック宮内製作所、株式会社理研十尺旋盤宮内製作所、理研鋼材尼崎工場、株式会社東洋綴金具製作所、理研工学株式会社、理研護謨工業株式会社、理研自動車改造株式会社、株式会社科学主義工業社、理研電磁器姉崎製作所、株式会社理研宮内鋳造所、理研電具株式会社、ガイク機械製造株式会社、株式会社浪速機械製作所、柏崎興行株式会社、旭光学工業株式会社、理研琥珀工業株式会社、理研金属株式会社、理研鋳造株式会社、理研工作機械株式会社、理研科学映画株式会社、理研電磁器株式会社、理研輸出玩具株式会社、日本光器製造株式会社、理研酒工業株式会社、理研工業薬品株式会社、理研栄養薬品株式会社、理研電動機株式会社、朝鮮理研金属株式会社、理研スプリング株式会社、理研重工業株式会社、理研製機株式会社、理研計器株式会社、理研水力機株式会社、株式会社浪速機械三河製作所、理研合成樹脂株式会社、株式会社朝鮮製鋼所、株式会社東洋綴金具三国製作所、株式会社山鹿製作所、株式会社浪速機械京城製作所、株式会社理研水産加工塩釜工場、葛生窯業株式会社、株式会社戸越精機製作所、株式会社飯田製作所、高崎自動車部品株式会社、特殊ゴム化工株式会社、朝鮮理研鉱業株式会社、株式会社東洋製鋼所、朝鮮理研護謨工業株式会社、理研空気機械株式会社、株式会社渡辺鉄工所、理研栄養飼料株式会社、理研電化工業株式会社、理研鋳造株式会社、理研電機製造株式会社、理研鉱業株式会社、理研工業株式会社(大河内記念会『大河内正敏、人とその事業』より)

また、理化学研究所は、東京の本部で研究を行うだけではなく、国立大学などの優秀な研究者を所員として兼任させ、潤沢な研究費を与えた。

有名な事例としては、本田光太郎のKS鋼の開発は、東北帝国大学の学者でありながら臨時理化学研究所員として研究した成果であった。

また、理化学研究所が工場を建設する場合には、柏崎など地方に工場を建設して人件費を抑え、かつ、地方経済の雇用に貢献することを目指した。

こうして30年代には、特許権実施報酬、配当金、有価証券売買差金、特許権許諾料、寄付金によって収入を上げ、潤沢な研究費によって自由な研究も確保された。

研究開発成果の産業化等によって得た収入により、自由な基礎研究も可能となった。「高峰譲吉の精養軒演説」にあるように、実用のための基礎研究という明確な理念をもち、併せて大河内のような優れた経営者を引き入れたことにより、湯川秀樹や朝永信一郎のようなノーベル賞を受賞した優れた理論物理学者などを輩出していった。

しかし、戦時体制に入ると、軍部からの委託研究が多くなり、仁科芳雄博士がサイクトロンによる原子物理学の研究を行っていたことなどから、連合軍に解体された。

戦前の財団法人理化学研究所は、研究のための研究ではなく、初めから産業への貢献を主眼とした研究を行うことを目的として設立された法人であった。そして、自ら財源を確保しなければ研究費の確保は難しかっただけではなく、政府機関ではなかったので自ら努力しない限り破綻の危機にさらされていた。このような背水の陣の中で、質の高い研究開発とその成果の産業化という好循環を生み出していった。

本掲載を終えるにあたり

ワシントン商工会のご厚意により、これまで8回にわたって紙面をいただき、明治・大正の経済界昔話を連載させていただいてきた。ここで改めてワシントン商工会の皆様に感謝を申し上げたい。

現代の我々には、戦時中の統制経済を経て、冷戦下の戦後の高度経済成長期に形成されてきたモデルの延長線の発想だけでは解決しにくい課題が多くなってきている。

無論、アメリカなど海外の経験を共有することは必要だが、今回の連載で紹介したように、資本主義がある意味で現代以上に徹底していた一昔前の日本自身の成功や失敗の経験の中にも、現代の我々が将来を見つめる上で貴重な経験が数多くの経験が残されている。

今後、様々な角度から光が当たり、特に、現在の経済に携わるものにとっては、これまでの経済や経営の歴史の中から、さらに現代に活きる発見がなされていく事を期待したい。

成功や失敗の経験の宝庫である日本の歴史は、一部の日本史の専門家だけのものとするには、あまりにも活き活きとし、豊かなものであると痛感している。

(注)歴史事実及びその評価を含め、本稿は筆者の個人としての見解であることをお断りします。