『リメンバー514』

佐藤ロミ

毎年5月14日が来ると、私の想いは、自然と「あの日」に戻される。「あの日」とは、忘れもしない日、17年前、私が日本を出、アメリカに到着した日のことである。その後17年間、勿論いろいろなことがあり、多くの人と出会ってきたが、「あの日」のことだけは、心が痛くなるほど鮮明に覚えている。

日本を出たのは5月14日。バブル期の日本で超忙しく、出発前日さえも夜遅くまで仕事をしていた。成田空港から飛行機に乗る直前まで会社に電話で仕事の引き継ぎを行い、荷造りの終わっていない家財道具はすべて後輩にまかせて処理してもらう、という何とまあいい加減かつ無鉄砲な旅立ちであった。

到着したアメリカの5月14日は、フィラデルフィアであった。5月のまぶしい緑、大きく羽を伸ばした蝶のような自由な感覚、そしてその自由とは裏腹にポツンとひとりでアメリカにいるのだ、という途轍もない不安感。 なぜか到着した日は日本の本棚にずっと積んだままになっていたJames Fallowsの「日本封じ込め」をベッドの上で思いっきり夜まで読み通した覚えがある。

本を読みとおして、二つのスーツケースを片付けると、狭い部屋の中で次に考えることは食事のこと。温かいスープを食べたいとおなかが騒いでいるにもかかわらず、どこに行って食事をしていいものやら見当がつかない。暗くなってきてUPEN (University of Pennsylvania)の周辺を出歩くのもなんとなく心配で、どうしたものかと建物の中を歩き回っていると、なんとキャンベルスープの自動販売機を発見。

これは天の助けとばかり飛びついて、ライス入りのチキンスープを、震えるほどおなかのすいた手で買い求めた。大喜びでカンを開いてみると、目の前に飛び込んできたのは、油の浮かんだ黄色い液体と、ウジムシみたいなぼちぼちのライスであった。世の中にはどんなにおなかがすいていても食べられないものがある。つらかったがスープのカンはゴミ箱へ。朝までひもじさとひもじさからくる不安と孤独と時差ぼけと戦ったことを覚えている。

5月14日は私がアメリカで産声をあげた日である。新しい世に出てきた喜びと冒険心。また自分で生きていかなくてはならないという身の引き締まるような思い。そして孤独と寂しさと人恋しさ。5月14日はそんな複雑な気持ちがごっちゃになった日である。

フィラデルフィアで数ヶ月過ごしたあと、次に向ったのは、Murrayというケンタッキー西部にある、小さな町であった。ニューヨークから乗ったGreyhound バスが27時間ほど走ったあとで、明かりの全くない完璧な暗闇の小道を走り始めたころ、私は自分の人生の選択を誤ったかと考えもした。いったい私はどこに行きつくのであろうか。私の人生はどこに到着するのであろうか、と運転席の隣にへばりつきながら、暗闇の窓に映る不安そうな自分を見つめながら考えていた。

Murrayは日本人はもとより、アジア人のほとんどいない人口1200人程度の南部の町。今時まだ存在することさえ知らなかったdry countyで、町にはファーストフードを除くとレストランは二つしかなかった。しかし、人々は親切で暖かであった。人によっては、人種差別がはなはだしい所、という人もいたが、私が鈍感なのか、そういった印象はほとんど受けなかった。南部の人々は、全然知らない人でも目があうと、"Hi"とか"Howdy"とかにっこりとして声を掛け合う。そういった経験がなかった私には、最初は違和感があったが、そのうち自分から"Howdy!!"と南部のおじさんっぽく挨拶をして笑われたりしていた。

Murrayに到着して間もない8月の暑い夏の日、まだ車も知り合いもほとんどいないキャンパスにて、またもや困ったのは食べ物のこと。もうほとんど食べるものが冷蔵庫の中にはない。食べ物のためには努力を惜しまない私は、100度以上の南部の炎天下のハイウェー沿いを歩いてWalMart, Piggly Wigglyまで買い物に出かけることを決意した。たぶん距離にしたら3マイル以上はあったと思う。勿論帰り道は、持てるだけの荷物を両手にぶらさげ、焦げ付くような南部の日差しの中、よちよちふらふらと歩く羽目になってしまったのであるが、持ち替えては止まり、止まっては持ち替え、と荷物の中味が増えているのではないかと思えるほど、ショッピングバッグの荷物はだんだん重く感じられていく。アスファルトの照り返しも憎らしいほど暑い。

と、その時、突然私の横にチェッカーのデニムシャツとベースボールキャップ姿のおにいちゃんたちが5−6人乗ったピックアップトラックが止まった。まだよく聞き取れない南部なまりで車の上からなにやら叫んでいる。「やばい!」と炎天下で疲れた体が、一瞬にして恐怖でこわばっていくのが自分でもよくわかった。

トラックの方を見ないように無視して歩き始めたが、両手にぶら下がった食料品の袋が私の動きをかたつむりのようにのろくしてしまう。悲しいかな、ここまで運んできた食料品を捨てて走り出す決意もつかない。 ピックアップトラックの上からはまだなにやら叫び声が聞こえる。無視して歩く私の耳には、よく聴いてみると、どうも"Do you need a ride?"と言っているらしいことがようやくわかってきた。ふとトラックのほうに目をやると、そんなに悪そうなおにいちゃんたちにも見えない。私は覚悟して荷物を地面において立ち止まった。

複数のおにいちゃんたちが乗っているピックアップトラックに乗り込むなんて信じられないだろうが、死にそうな暑さと、捨ててしまいたい衝動にさえかられていた両手の貴重な食料品、そして驚きと恐怖で頭が混乱してしまったのか、どういうわけか私はそのピックアップトラックに送ってもらうことにしたのである。

あけてもらった冷房入りの助手席に座りラジオから流れるカントリーミュージックを聞いていると、何とも心地よい。結局おにいちゃんたちは、ほとんど話しをすることもなく(多分私が一言づつ聞き返すので彼らも面倒になったのでしょう)大学のアパートまで送ってくれ、ナントさらに重い荷物を中まで運び入れてくれ、名前も名乗ることもなく去っていったのであった。荒野を去るカーボーイさながら、これ以上のヒーローはいないと私は感じた。

不思議なもので、この17年間のアメリカ生活を振り返ってみると、汗や涙がどっと出てくるような想いのことばかりがまず頭に浮かんでくる。

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最近は仕事がら、日本から初めていらっしゃる方にお会いする機会も増えている。私自身、こちらの生活にすっかり慣れてしまっていると、何が初めてアメリカに来た時の不安や心配ごとであるかを、すっかり忘れてしまうことが多い。そんな時に私を原点に戻してくれるのが、5月14日のフィラデルフィアのまぶしいほどの日差しと、キャンベルスープカンの中に浮かんだみじめなライスの粒なのかも知れない。

また、自分ひとりの力でどうにかしようともがいている時 ? たとえば真夏の南部の炎天下に重い荷物を泣きそうになって運んでいる場合- には思いがけない人が助けてくれたりするものだ。どこで生活するのも楽ではないと思うが、親戚や家族がまわりにいない異国の地でひとりで生きていくのは随分色々な人に思いがけない助けをいただきながら生きてきたように思う。

昔は嫁入りするときには、もう実家には戻らない、という決意のもと、自分の茶碗を割って嫁入りしたというが、私も実は、2年で帰ってくると思っていた親には内緒で茶碗を割る気持ちで渡米したのである。この17年間に何度日本に帰ろうかと思ったことだろうか。特にこちらでの生活が行き詰ると、日本がパラダイスに見えてくることがある。考えてみると、私が今こうしてアメリカで幸せに生活し続けてこれたのも随分ラッキーなことだと思う。

何故アメリカで生活し続けるのか、と人に聞かれることがよくあるが、私は私なりに自分の人生のアジェンダを追求しているとしかいいようがない。成り行きでここに存在しているわけでもなく、一応、すべてが意識的な選択の結果として今こうして生活しているのである。これからも私の人生の冒険は続いていくが、5月14日には毎年静かに原点をみつめ、感謝を忘れないようにと心がけている。