『予期せぬ異動』

在米国日本大使館 公使 古澤 満宏

「ワシントンに行ってもらう」
--- 予期せぬ異動その1 ---

2007年6月初め、人事を取り仕切る官房長(現主計局長)がお呼びだという。官房長は3年前まで私が外務・経済産業担当主計官だった頃の直属の上司。今でも時折飲んでは勝手な話で盛り上がる。会合のアレンジなら電話でも済むのにと思いつつ部屋に入るなり、「古澤ねえ、今年の異動でワシントンの大使館に行ってもらうよ。」 一瞬、目が点になった。「今年ですか?」「そう。」「いつ頃ですか?」「今月末か来月初めだな。」「私、今月は3回海外出張の予定が入ってるんですが…。」「それは局内で調整してもらうんだな。」

当時、私は財務省で国際局担当の大臣官房審議官として、世界銀行やアジア開発銀行、アフリカ開発銀行等の開発機関を担当していた。3年に一度の増資交渉の真っ只中である。6月も上旬にはチュニスでアフリカ開発銀行の増資交渉、月末にはモザンビークで世銀の増資交渉が予定されていた。異動など微塵も考えていなかった。「それは打診ですか?」「人事は相談しないよ。」 蓋し名言である。

結局両方の交渉に出席して7月4日帰国、6日発令、15日に当地に着任した。当然、大掛かりな引越などできるわけがない。そもそも長女は3年前からパリの大学に在学中、長男はこの春東京で大学に入ったばかり。面喰ったのは私だけではない。幸い、車を始め家財道具のほとんどを前任者から引き継げるということなので、出発の前日に有楽町のビックカメラで買った厚釜の炊飯器とスーツケース一つでダレス空港に降り立った。ワシントンにはIMF, G7 担当の課長、課長補佐、財務官室長として30回以上お邪魔しているし、この一年でも4回出張で来ている。前任者が帰国するまでの一週間はホテル住まいだったこともあり、財務省等に挨拶回りで行っても一向に赴任した気がしない。

初めて赴任を実感したのは車を引き継いで自分で運転した時だ。何度も来てはいるが、行く場所は財務省、ブレアハウス(G7会場の迎賓館)、IMF、世銀、ホテルと空港だけ。しかも運転は人任せ。結局西も東も分からない。ワシントンは碁盤の目のようで運転し易いというけれど、一歩外に出ると全く違うじゃない。どこを走っても森の中。ベセスダの自分の家にたどり着けるか心配になった。ケーブルテレビのコムキャストにはアポをすっぽかされるし、電話が通じなくてテクニシャンを呼んだら朝8時と夕方5時の間に伺いますと。せめて午前か午後にして下さいよ。ああ出張じゃない。赴任したんだ。

 「来月の会議に間に合うように行ってくれ」
--- 予期せぬ異動その2 ---

そもそも予期せぬ異動は今回が初めてではない。丁度10年前の97年12月。官房調査企画課の企画官だった頃、秘書課長がお呼びという。次官レクの待機中と伝えるとレクの後でいいから部屋に来いとのこと。当時、大蔵省は数々の不祥事で揺れていた。異動の時期でもないし、いったい何事だろう。次官に説明している間も心ここに在らず。恐る恐る秘書課長室に入るなり、「古澤、来月のパリクラブに間に合うタイミングでパリに行ってくれ。」

パリクラブといっても銀座のクラブではない。借入国に対する公的債権を債権国が平等に回収するために1956年に成立された国際的なフレームワーク。仏財務省が事務局となり、借入国の債務をリスケしたり削減する交渉を毎月行っている。代々財務省からパリの大使館に出向した参事官がこの会議を担当していたが、当時の参事官は病気のため既に帰国していた。この時も相談ではなかった。

前任者がもういないから仕事以外は何も引き継げない。たまたまパリに出張する機会があったので、会議の合間に家を探し、帰りの空港に向かう途中、IKEAに寄って家具を注文した。当然車も無い。シャンゼリゼのプジョーに飛び込み、すぐ手に入る車をくれと言ったら金色しかない。お蔭で交通量の多いパリでも一目で自分の車を認識できた。東京を離れるとは思ってもいなかったから半年前に車を買い換えたばかり。安月給の公務員が半年で2台の新車を買う羽目になった。年末年始を挟んで子供達の転校の手続をして1月13日に赴任。一家4人ホテル住まいのまま翌日から会議に出席した。

パリクラブにはその後の担当課長時代を含めると都合20数回出席しているが、2004年のイラクの債務削減交渉は私が参加した数ある国際交渉の中でも最も印象に残るものの一つだ。イラク戦争を巡る米欧の対立の中で、数千億円の貿易保険債権を有するイラク最大の債権国たる我が国のスタンスが交渉を左右した。余談になるが当時の米国の代表は国務省のグリーンウッド審議官(現アジア開発銀行副総裁)。7月から開始した交渉は11月に大詰めを迎えた。一週間に及ぶ徹夜の交渉が続き最終合意文書をまとめる時、米国はその文言の修正を執拗に求めていた。彼が顔を真赤にして発言している最中、携帯が鳴った。発言を中断し電話していた彼の表情が変わった。「合衆国は現在の文言のまま受け入れる。」

国際交渉も時代とともに変わる。いまや会議場と各キャピトルは直結だ。コミュニケのドラフトも以前はファックスでやり取りしていたが、今はメール。あっという間に各国からのコメントが集まりリバイズ。会議中も以前は事務局が各国の発言を聴きながらドラフトを修正して配布、それにまたコメントするという作業を繰り返していたが、今はパワーポイントで会議の場で修文、会議終了時には最終版が配布される。そもそも会議も開かずに電話かメールで事足りるのではとも思うが、やはり各国の理屈抜きの利害を背負った交渉担当者の怒り、不満、焦燥が直にぶつかり合わないと国際交渉は合意に至らない。

「行政改革推進事務局」
--- 予期せぬ異動その3 ---

予期せぬ異動はまだある。一昨年の暮、私は国際局の総務課長をしていた。総務課長といえば局内の人事・予算を統括する要として無くてはならない存在と一応は思われている。夏の定期異動から翌年の夏までの任期途中で総務課長が代わるなどということは聞いたことがない。私も当然一年間務めるものと思っていた。予算がまとまり一息という時、局長から呼ばれた。「年明けから内閣審議官として行政改革をやってもらう。」「はあ?」 全くの想定の範囲外。

小泉改革の総仕上げとして行政改革推進法を作って成立させるべく行革事務局には各省から人が集められていた。財務省からも10数名が送り込まれた。行革の柱は公務員削減、政府系金融機関の見直し、特別会計制度の見直し。主計局給与課で公務員予算を担当したこと、外務・経産担当主計官として国際協力銀行、政策投資銀行、中小企業金融公庫等見直し対象となった8機関のうち5つを所管していたこと、エネルギー関連特別会計の見直しを行ったことといった経験が災いしたようだ。ただ1月から7月まで、極めて間口の広い法案を短時間で編成、成立させるという得難い経験をさせていただいた。衆・参それぞれ60時間以上という郵政改革並みの審議時間。厚さ10センチを超える一日分の答弁書を毎日夜中までチェックして朝6時半出勤。9時の委員会開始直前まで大臣レク。日中は根回し。

行革事務局は130余名のうち100名以上が各省から集められた混成部隊だが、出身官庁の省益などというつまらぬことに拘る輩は一人もいなかった。連日の会議の議論は実に濃密。重要事項は内閣官房副長官補、副長官、長官を経てその日のうちに総理に上がるという早さだった。役所というと組織が硬直的でその時々のニーズに臨機応変に対応できないという評価が一般的で実は私もそう思っていたが、目標と期限を明確にして人を集めれば、現行の枠組みの中でも極めて効率的な組織ができることに驚いた。因に内閣審議官の辞令もそれを免ぜられ財務省に戻る辞令も、時の安倍官房長官から頂戴した。

おわりに

これまでの仕事の内容等を含めた自己紹介をとの会報担当理事からの御依頼だったため、実に取留めのないことを書き連らねてしまったが、思えば役所に入ってから予想通りの異動の方が少なかった。留学するときも米・英を希望したら仏に派遣され、税務署も温泉のある田舎を希望したら幕張の千葉西署。愛知県農業水産部に出向した時も、人事担当者から「皆と仲良く酒でも飲んでいればいいんだ。」との有難いお言葉を受けて赴任したところが、着任前日に名古屋で開催された全国オンブズマン大会に端を発する官官接待批判の中、毎日6時には単身赴任寮に戻り自炊する日々。まさに辞令一枚で仕事も生活も激変するサラリーマン人生の典型。

そんな中で培われた私なりの生活の知恵は、まず何時でも状況の変化に対応できるよう身軽にしておくこと。不要なものは極力持たない。書類もかつては読み終わるとファイルし、何時か役に立つかもしれないと取っておいたが、今は余程重要なもの以外はすぐ捨てる。整理するものが少ないと異動も楽。そして、その時その時の状況下でベストを尽くし、状況が変われば直にマインドを切り替えてむしろサプライズをエンジョイする。

予想外とは言え、来年の大統領選挙を控え、これ程面白い時期にワシントンに居られるとはラッキーと言わざるを得ない。再来年の4月、社会人30周年を迎えるが、その頃誰が大統領になっているか、当地で直に見られる事が今から楽しみだ。その前にまたしても予期せぬ異動がなければの話だが。