『随想 リンカーンメモリアル』

在米国日本大使館経済班 参事官 斎藤晴加

ワシントンでもっとも多くの観光客が訪れるスポットはどこであろうか。ホワイトハウスは誰もが関心を持っているだろうが、今では一般観光客は内部には入れなくなってしまった。議会議事堂も同様である。私はリンカーンメモリアルではないかと思っている。私自身今回が2度目のワシントンDC勤務であるが、日本からの友人、親戚、出張者等をリンカーンメモリアルに案内した回数は10回をくだらないだろう。メモリアル前の階段を昇ってキャピトルヒルを振り返った時に、議事堂、ワシントンメモリアル、リフレクティングポンドが一直線に並ぶ様は私がもっとも好きなワシントンの光景の一つである。(最近階段の上のフェンスが取り払われた。階段の上からだと写真を撮ろうとしても議事堂とワシントンメモリアルが重なってしまうのだが、少し横に動けるようになり、良い構図の写真が撮れるようになった。さらにメモリアルの横手からは回廊風に裏に回れるようになっており、そこからメモリアルブリッジ、ポトマック川の向こうにアーリントンの丘を望む景色もまた格別である。ちなみに1セント硬貨の裏側に刻まれているのはリンカーン記念堂であり、よくみると真ん中にリンカーン像らしきものも見える。)

ワシントンでの生活は通算6年目に突入中であるが、遡ること40数年前にも私はワシントンを訪れていた(らしい)。1枚の写真がある。幼い兄弟が手をつないでリンカーン像を真下から見上げているところを後ろから両親が声を掛けたのであろう、二人とも身体を半身にずらして声の方を向いたところを撮った写真である。4才年上の兄にこの写真を撮った時のことを覚えているかと聞いたことがある。兄は一言、「暑い日だった」と言った。当時も今もワシントンの夏は暑かったと思われる。おまけにリンカーンメモリアルは白亜の殿堂と呼ばれ、大理石に当たった直射日光の照り返しはきつい。父によると夏休みに当時住んでいたマサチューセッツから車で南下してワシントンに観光にやって来た。ポトマックを渡ったところにあった安モーテルに泊まったそうである。1ドル360円の時代である。

この写真を見ていると不思議に思うことがある。私たち兄弟以外に誰も映っておらず、そしていかにも閑散とした雰囲気が漂っているのである。母の記憶によるとこのとき周りには我々家族以外に誰も人がいなかったとのことである。現在、リンカーン像の前に行って写真を撮ろうと思ったら大変である。世界中からの観光客が入れ替わり立ち替わり、像の足元に走り寄ってはポーズを決めてあわただしく写真を撮っていく。1964年3月生まれの私が立っているところを見るとこの写真はおそらく翌1965年の夏に撮られたものなのだろう。1963年の秋、母はケネディ暗殺の報に接したとき、著しく動揺したという(お腹に居た私もその後繰り返し流される報道を耳にしていた...かどうかは不明。)。同じ年の8月にはワシントン大行進が挙行され、ここリンカーンメモリアルの前には25万人の人々が押し寄せ、マーティン・ルーサー・キング牧師によるI have a dream演説を聴いた。それから2年アメリカはベトナム戦争にますますのめりこんでいく。首都ワシントンは混沌と不安と一種の熱気に包まれていたと思われるのに、なんとも静かでのどかな写真なのである。

昨年11月長男がバージニアの病院で生まれた。この原稿を書いている今気づいたのであるが、私の年齢は奇しくも私が生まれたときの父と同じであった。この夏、その長男を連れて、リンカーンメモリアルに行ってみた。リンカーン像は相変わらず沢山の観光客に囲まれて賑わっていた。まだ一人で立てない長男を抱き上げ家内と3人で写真に納まったが、撮られた写真にはやはり他の観光客の顔がばっちり入り込んでいた。私の赤ん坊時代のワシントンでの写真は兄とのその一枚の写真しか残っていない。日本に帰国するまでの2年足らずの間の全部をあわせても私の写真は十枚程度しかないのではないか。しかるに今私はデジカメを駆使して長男の写真を1日に十何枚も撮ってしまう。隔世の感である。

子供の頃、両親からはずっとあなたはアメリカで生まれたのだと言われてきた。もちろん私の記憶には何も残っていない。それでもアメリカは自分にとって身近な国、第2の祖国なのかなとも思ってきた。1993年、生後初めて戻ったアメリカは、クリントン=ゴア政権の下、情報ハイウェー構想をうたい、60数年ぶりの通信法大改正に向けて、テレコム産業界はお祭り騒ぎであった。そのダイナミズムに私はただ驚嘆していた。そして通信機器の調達問題や接続料を巡る日米電気通信摩擦。帰国後の役所では米国担当の課長補佐としてそのアメリカと「戦う」ことになった。アメリカは遠くなった。

それからまた数年が経った。その間にアメリカではITバブルが弾け、ダレスアクセス沿いのIT企業の数も随分減ったように見える。再度の赴任となった今回、幸いこれまでのところ日米経済関係は総じて良好なようだ。アメリカで始まり、前回の赴任中に急速に広まったインターネットは人々の生活、我々海外駐在員の仕事ぶりを変えた。今回の赴任後もYouTubeやiPhoneなどの画期的な新しいサービスが次々と飛び出してくるあたりアメリカの底力はさすがだなと思う。日本はアメリカからこれからも学び、そして競い合っていくことになるのだろう。当地で日に日に成長する長男の姿を見ながら、ふと彼にとってのアメリカ、彼の時代の日米関係はどうなっているのだろうかと思うことがある。しかし一つ確かに言えることは彼もきっと将来このワシントンの日々のことを何も覚えてない、何も思い出せないと言うに違いないということなのである。