『時の積み重ねとイノベーション』

三井物産株式会社  高堰 博英

今年2008年、新年が明けてまもない朝2時にBethesdaを出発、ノースカロライナ州、キティホークへ向かった。I-495、I-95と南にリッチモンドまで行き、そこからI-64を東に抜けて、途中、ノースカロライナに入ると、急に町並みの雰囲気が変わった。ガソリンも無くなりかけていたので、スタンドに立ち寄り、店に入ると、DC周辺ではあまり見ない赤ら顔の大きな体のおじさんが店員と楽しくしゃべっている。なんとも言えないゆったりした時間であった。その後、更に南に向かうとやがてキティホークの海岸が見えてくる。丁度海岸に着いた時には、今まで見たこともない素晴らしい初日の出を拝むことができた。

キティホークは一度行ってみたかった場所だった。ライト兄弟が動力飛行機で初飛行した場所を訪れ、そこで何が起こっていたかを体感し、自分の頭に何が思い浮かぶのかを試して見たかった。日の出を拝んだ後、車で南に向かって走り、左手海岸沿いに別荘らしき家が沢山並んでいるのを見ていると、突然右側の視界に広い野原が見えてくる。表示を見なくても、ここが初飛行をした場所だとすぐにわかった。開館は朝9時で、それまで未だ1時間半もあったので、観光客はもちろん、記念館の従業員も誰も来ておらず駐車場には1台も車が止まっていない。車を降りて、とにかく広い原っぱの中にある記録の石碑と思われる石と2つの小屋を目がけてゆっくり歩いた。左手遠くには大きな丘が見え、その頂上にはワシントン・モニュメントの天辺の形と似た記念碑が見える。天気は快晴で1月1日なのに暖かく、春のような穏やかさだった。風は少しだけで強くはなかった。

ここは記念館と記念碑がある以外は本当にただの広い野原で、何もない場所(同じ敷地内には軽飛行機の滑走路があるが野原から見ると森林で隠れて見えない)。けれど、この広い野原と初飛行の記録の石碑、そして小屋が2つという空間は、ライト兄弟がここで何をしていたかを想像するには十分な場所だった。小屋そして離陸点に近づくだけで、そこで飛行テストをしている現場に居合わせているかのような錯覚さえ起こせる、そんな場所だった。

なぜ、ライト兄弟はこのキティホークにまで来ることになったのだろうか。誰しもきっと思い浮かぶだろう疑問が私にも浮かんだ。一般的な答えは、兄弟は色々な人々からアドバイスをもらい「気象庁に『砂地で風の強い場所』を問い合わせ、その中から選んだ」ということであった。もちろん、風と砂は飛行実験をするには重要な条件であったことは確かである(広い砂地であると遮る物がなく、落ちてもクッションになる)。しかし、私は野原の中の記念館に入り、記録に触れ説明を聞くと、ライト兄弟は自ら選んでここに来たというより、彼らにとってはここしか無いと思わせ、むしろ”吸い寄せられるように“この地を選んだのだろうと考えた。

兄弟はオハイオで自転車屋を経営する傍ら、弟のオーヴィルが印刷屋を創業、新聞も発行していた。彼らはもともと持っている知的好奇心という強い欲望があったようで、その為のお金儲けにも関心があったようだ。ある日、兄弟が大ファンであったドイツの航空研究家でグライダーの開発者オットー・リリエンタールが飛行試験中に事故死したことを知り、本格的に飛行機に目覚めたと言われている。その後、研究を続けるも、飛行機への思いは益々高まり、オハイオを離れるところまでになった。そして実験の場所を探す過程の中で、ライト兄弟の持っていた強い思い(特に兄のウィルバー)に共鳴する人たちが、キティーホークへ向かわせたようにさえ感じた。キティホークを選んだ理由の一つに、当時他にも飛行実験をしている人達がおり、自分達の実験をなるべく人に見られないところで行いたかったということもあったが、それ以外の理由として、兄弟には、オハイオの日常ではなく、非日常的とも言えるキティホークのような偏狭の地が必要だったのだろう。実際、兄弟はキティホークに行く際には父親にバケーションに行くようなものだと言っている。それ故にオハイオとは違い、キティホークは兄弟にとって非日常空間としての場所となったはずだ。そして更に兄弟の思いに自然と共鳴した人たちとの縁によってキティホークが、最終的に飛行機を形にする歴史的な場所にまでなったように感じる。

兄弟の大切な縁者の一人に、キティホークの郵便局長ウィリアム・テイトという人物がいる。彼は元々兄ウィルバーから問い合わせを受けたキティホークの気象台から頼まれ、キティホークへの誘いとその行き方を教える為に兄ウィルバーに手紙を出している。テイト家に関する記述はそれほど多くはないが、ウィリアム・テイトと異母兄弟のダン・テイトは後の兄弟が残す飛行実験などの初期の記録写真に何度も登場しており、兄弟との交流が深かったことが分かる。また、1903年12月17日は初飛行の日として有名であるが、実はその3日前の14日が初飛行を実施する最初の予定日だった。その飛行実験の直前に取っただろう写真に当日証人として呼ばれたライフセービングステーションから来た男4人と2人の子供の姿が写っている写真がある。この一枚の写真はライト兄弟の協力してくれた人々への感謝の気持ちが現れているように見えた。

兄ウィルバーが初めてキティホークに着いた1900年9月13日から初飛行を成功させるまでの4年間、兄弟は毎年、年の前半は自転車屋の仕事に集中し、残りの後半、夏の終盤頃からキティホークを訪れ、実験を重ねている。最初の年は布製の大きなテントを張って過ごしたが、翌年1901年は作った飛行機を収めることができるように木造の小屋を建て、1902年には小屋の屋根裏のようなところにベットを備え、食料など備蓄も充実させていた。そして初飛行の年1903年には二つ目の小屋を立て、飛行機製作と居住の為の空間を作り上げている。このようにライト兄弟がオハイオから遠く離れて、飛行機への思いを形にしてゆく過程で、非日常が新しい日常へと徐々に形作られてゆく姿が、記録した多くの写真の中に映し出されている。初飛行をした1903年12月17日の飛行実験は朝10時過ぎ頃から始められ、4回の飛行が終わったのは12時だったと記録がある。こうした記録の一部に触れ、実際に改めて野原に立つと、動力飛行を実現するまでの流れをよりリアルにイメージできる。

私はライト兄弟が動力飛行を成功させたことも、そして弟オーヴィルがパイロットで、兄ウィルバーが飛び立ったすぐ横で心配そうに写っている初飛行の時の有名な写真は昔から画像として知っていたが、実はこれまでこの飛行実験は割りと簡単に行われていたのではないか、と勝手に思い込んでいた。しかし、キティホークに立ってみてわかったことは、ライト兄弟の飛行機への思いと並々ならぬ努力の跡。そして、その兄弟の思いに共鳴した(引きずられた)地元の人達をはじめとした縁者と過ごしたライト兄弟の姿だった。

兄弟が現在の航空機の原型と言える動力飛行機を開発したことは、その後の100年を大きく変えることになった。このことは後の歴史が証明している。飛行機はイノベーションの賜物である。前述した通り、私はライト兄弟の初飛行は理論やアイデアを確立した上で、その後、その理論に基づいて飛行実験に成功したのだろうぐらいに思っていた。しかし、実際は、実現するか分からない状況の中、挫折をしながらも、緻密に飛行機を改良し、強い思いを重ね、共有しながら、小さなプロセスを積み重ねていたことが分かる。そして、こうした一つ一つの積み重ねが、1コマ、1コマの変化を実現し、最後には大きな変化そしてイノベーションを生んだのだと考えるようになった。そうしたプロセスの中でも節目があり、その中には飛躍的な変化の時もあると思うが、どのプロセスも積み重ねられた連続の結果として起こる。逆に、プロセスに関わっていなかったり、細かなプロセスの変化に気付いていない人々の目から、結果だけを見ると「全く世界が変わってしまった」、正に突然の革新のように感じるのだろう。

冒頭に述べたとおり、今回キティホークに立ち、私の頭に何が浮かび上がってきたのかの答えはイノベーションであった。キティホークで見て感じたライト兄弟の記録の1コマ1コマが、イノベーションを実現するプロセスのイメージそのものとして浮かび上がり、イノベーションが起こるということはこういう時の積み重ねの結果なのだと、よりリアルに理解することができた。そして、もう一つ、このキティホークで兄弟が過ごした時間は、毎日が思いと悩みそしてワクワクした何物にも代え難い夢のような時間だったのだろうと感じ、私自らの今後の生き方の糧にさえなった気がする。

以上